飯盛城の戦いとは? わかりやすく解説

飯盛城の戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/31 16:49 UTC 版)

飯盛山城」の記事における「飯盛城の戦い」の解説

足利義維擁する細川晴元実権握った為、和平訪れるかに思われた。ところが細川高国討滅させたという軍功挙げていた三好元長木沢長政対立が、新たな戦乱引き起こしていた。 対立発端は、河内を巡る主権争い守護代木沢長政守護畠山義堯(義宣)から守護職奪い獲る企て発覚したことにある。享禄4年1531年8月怒りあらわにした義堯三好元長一族三好勝宗(三好一秀)に頼んで飯盛山城攻めたが、長政からの援軍要請受けた細川晴元によって撤兵命令下されたため、三好勝宗は一旦兵を収めている。しかし翌5年1532年5月態勢整えた義堯と勝宗は飯盛山城を再攻、三好元長にも増援要請している。そこで長政も再び晴元援軍要請したが、畠山三好連合軍攻囲排除させるには至らなかった。 そこで自軍での武力排除断念した晴元は、山科本願寺法主証如一揆軍蜂起要請。この背景には元長が肩入れする本願寺対立宗派法華宗へのライバル意識利用したものと思われている。 17歳になった証如は、祖父実如遺言であった諸国武士を敵とせず」という禁を破って同年6月5日山科本願寺から大坂移動摂津河内・和泉本願寺門徒動員をかけた。これに応じた門徒は、総勢3兵に及ぶ大軍だったと言われている。6月15日飯盛山城攻囲軍を背後から襲った一揆軍は、三好勝宗を含む200余兵を討ち取り退却する畠山義堯南河内まで追撃して6月17日石川道場自害追い込んだ。 なおも6月20日三好元長逃げ込んだ和泉顕本寺取り囲んだ一揆軍には各地より続々新たな門徒集結したため、10万兵まで膨れ上がったとも伝わっている。そこで元長を含む80余り殺害した一揆軍脅威により晴元勝利し長政も命は助かったものの、蜂起収束させない一揆軍暴走天文錯乱発展していく。 この戦いの後状況については、山科本願寺の戦い石山本願寺への移転和議成立参照

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