『堺公方』の瓦解とは? わかりやすく解説

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『堺公方』の瓦解

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/15 03:31 UTC 版)

堺公方」の記事における「『堺公方』の瓦解」の解説

細川高国との戦い四国衆を率いて戦功著しく三好元長復権果たしたが、その分畿内勢力警戒感大きかった摂津国衆は晴元筆頭奉行人となっていた茨木長隆通じ三好政長木沢長政らに元長の非を訴えた木沢長政河内守護代だが、元長派の守護畠山義堯対立していた。そこで山科本願寺法主証如後見人蓮淳通じて細川晴元接近し、元長の対抗勢力として期待を担うこととなった堺公方側は幕府追い落としに進む間もなく内訌始めのである享禄5年(1532年1月、元長は大叔父三好一秀京都差し向け柳本賢治遺児次郎攻め滅ぼした。これに怒った晴元が元長を討とうとするが、細川持隆仲裁入り、元長は堺の顕本寺において出家して謹慎海雲開運)と号した。しかし、元長を支援してきた持隆も3月には晴元義絶して阿波引き上げてしまい、晴元と元長の決裂必至情勢になった。 元長は河内畠山義堯大和国人らと結び、来たるべき対決備えた一方晴元は、茨木長隆らの進言により、敵対続けてきた将軍義晴との和睦企てていた。高国という対抗者が消えた以上、晴元には将軍幕府帰順し京兆家家督になる可能性開けたのである堺公方義維への背信である。元長はあくまで義維を推戴しようとし、畠山義堯も元長に同調したが、阿波勢の庇護を受ける身の上だった晴元にとっては、畿内基盤とする幕府権力者地位魅力的で、元長に対抗する力を手に入れられるのである享禄55月畠山義堯は元長が派遣した三好一秀援軍とともに飯盛山城木沢長政包囲した飯盛城の戦い)。追い詰められ木沢を救うだけの力は晴元になく対応に窮したが、茨木長隆発案により、原因一端に関わった山科本願寺一向一揆動員要請することとした。 これに応じて摂津河内・和泉蜂起した一揆衆の勢いは凄まじく、木沢窮地救ったばかりか三好一秀討ち次いで畠山義堯自刃させ、さらに堺の顕本寺まで進撃し、て6月20日に元長をも自害追い込んだ天文錯乱)。義維も元長の後を追って切腹しようとしたが、晴元家臣によって拘束された。こうして細川高国滅亡からか1年で、堺公方活動終止符打たれた。義維は10月に堺を出奔し養父同じよう細川持隆頼って阿波落ち延び、その翌月には将軍晴元の間に和睦成立した堺公方の崩壊について、細川晴元京兆家家督獲得すると、足利義晴廃して義維を将軍立てようとする三好元長に対して義晴支持基盤固さから義晴和睦し将軍として擁して義維は「弟」としてその下に統合しよう考え柳本賢治松井宗信木沢長政路線対立があったと考えられる。この問題は元長の子である三好長慶畿内実権握った後も残され四国多くいる義維派の支持引き留めるために義維を庇護し続け一方で畿内政治的安定のために義輝将軍として擁立し続け必要がある、という相反した行動を取り続けることになったとされる

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