『堺公方』の瓦解
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細川高国との戦いに四国衆を率いて戦功著しく、三好元長は復権を果たしたが、その分畿内勢力の警戒感も大きかった。摂津国衆は晴元の筆頭奉行人となっていた茨木長隆を通じ、三好政長や木沢長政らに元長の非を訴えた。木沢長政は河内守護代だが、元長派の守護畠山義堯と対立していた。そこで山科本願寺法主証如の後見人蓮淳を通じて細川晴元に接近し、元長の対抗勢力として期待を担うこととなった。堺公方側は幕府の追い落としに進む間もなく内訌を始めるのである。 享禄5年(1532年)1月、元長は大叔父の三好一秀を京都に差し向け、柳本賢治の遺児甚次郎を攻め滅ぼした。これに怒った晴元が元長を討とうとするが、細川持隆が仲裁に入り、元長は堺の顕本寺において出家して謹慎、海雲(開運)と号した。しかし、元長を支援してきた持隆も3月には晴元と義絶して阿波へ引き上げてしまい、晴元と元長の決裂は必至の情勢になった。 元長は河内の畠山義堯や大和国人らと結び、来たるべき対決に備えた。一方の晴元は、茨木長隆らの進言により、敵対を続けてきた将軍義晴との和睦を企てていた。高国という対抗者が消えた以上、晴元には将軍・幕府に帰順して京兆家家督になる可能性が開けたのである。堺公方義維への背信である。元長はあくまで義維を推戴しようとし、畠山義堯も元長に同調したが、阿波勢の庇護を受ける身の上だった晴元にとっては、畿内を基盤とする幕府の権力者の地位は魅力的で、元長に対抗する力を手に入れられるのである。 享禄5年5月、畠山義堯は元長が派遣した三好一秀の援軍とともに飯盛山城の木沢長政を包囲した(飯盛城の戦い)。追い詰められた木沢を救うだけの力は晴元になく対応に窮したが、茨木長隆の発案により、原因の一端に関わった山科本願寺に一向一揆の動員を要請することとした。 これに応じて摂津・河内・和泉に蜂起した一揆衆の勢いは凄まじく、木沢の窮地を救ったばかりか三好一秀を討ち、次いで畠山義堯を自刃させ、さらに堺の顕本寺まで進撃し、て6月20日に元長をも自害に追い込んだ(天文の錯乱)。義維も元長の後を追って切腹しようとしたが、晴元の家臣によって拘束された。こうして細川高国の滅亡からか1年で、堺公方の活動は終止符が打たれた。義維は10月に堺を出奔し、養父と同じように細川持隆を頼って阿波へ落ち延び、その翌月には将軍と晴元の間に和睦が成立した。 堺公方の崩壊について、細川晴元が京兆家の家督を獲得すると、足利義晴を廃して義維を将軍に立てようとする三好元長に対して、義晴の支持基盤の固さから義晴と和睦して将軍として擁して義維は「弟」としてその下に統合しようと考える柳本賢治・松井宗信・木沢長政の路線対立があったと考えられる。この問題は元長の子である三好長慶が畿内の実権を握った後も残され、四国に多くいる義維派の支持を引き留めるために義維を庇護し続ける一方で、畿内の政治的安定のために義輝を将軍として擁立し続ける必要がある、という相反した行動を取り続けることになったとされる。
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