堺公方の崩壊
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/07 08:09 UTC 版)
8月22日、晴元と持隆が堺において互いに籠城し、争う事態が発生した。その原因は晴元の御前衆である木沢長政と、持隆が支援する三好元長の争いにあった。 享禄5年(1532年)8月22日、元長の家臣の市原氏や三好一秀が柳本神次郎を殺害したため、23日に晴元は元長を討とうとした。だが、持隆が仲裁に入り、元長とその家臣80人が髻を切ってその場を収めた。 3月5日、晴元は元長を討つ覚悟を決め、国人らの動員に取り掛かった。 3月13日、持高が晴元と義絶し、阿波へと帰還した。そのため、公家の鷲尾隆康は晴元と元長の衝突を予想し、自身の日記『二水記』に記している。 5月、堺公方において、内部抗争が始まった。畠山義堯が晴元への接近を図る自身の内衆・木沢長政を、飯盛山城において包囲した。元長は畠山氏の援軍として、三好家長を派遣した。 一方、晴元はこれに対し、山科本願寺の法主・証如に長政への援軍を依頼した。証如は晴元の依頼を受け、6月5日に摂津の大坂に入って檄を飛ばし、一向一揆を起こした。 一揆は飯盛山城を攻めていた三好家長を討ち、6月17日には紀伊へ逃亡をしようとしていた畠山義堯も自害に追い込んだ。そして、20万の一揆勢は元長のいた堺をも包囲した。元長は敗北を悟り、6月19日に嫡子の三好長慶らを阿波に逃したのち、顕本寺で自害した。 このとき、塩田氏や加地氏らも元長に殉じたほか、義維の奉公人24人も自害している。義維もまた、顕本寺で自害しようとしたが、晴元によって捕らえられ、引接寺に移された。これにより、堺公方は崩壊した。 10月20日、義維は堺を出奔し、淡路に没落したのち、阿波へと去った。これにより、義晴と晴元の間での和睦の障害が消え去り、11月7日に両者の和睦が成立した。
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