堺公方期とは? わかりやすく解説

堺公方期

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/04 05:26 UTC 版)

三好政長」の記事における「堺公方期」の解説

初期の経歴不明だが、長兄の新五郎永正17年1520年)に伯父本家当主三好之長従い等持院の戦い細川高国敗れ、之長と共に処刑されている。高国政敵で之長が擁立していた細川澄元畿内から阿波逃れ死去遺児聡明丸(後の晴元)は阿波止まり三好一族も之長を始め多く高国との戦いで敗死して勢力減退させ、逼塞余儀無くされていた。 大永6年1526年12月13日高国が自ら招いた内紛苦境に立たされていた好機乗じ、父や次兄勝長と共に阿波勢の先鋒として堺に上陸摂津堀城占拠した続いて7年1527年)に北上して摂津山城の境目に当たる山崎反高国派の柳本賢治合流2月13日桂川原の戦い高国勝利して近江追い落とし上洛果たした3月22日従甥にあたる本家当主三好元長(之長の孫)が足利義維晴元擁立して堺に上陸幕府酷似し堺公方府を誕生させるとその中枢入った。 しかし元長とは仲が悪く、賢治と組んで元長と対立するようになり、しばしば主君晴元讒言して元長を陥れた。大永8年1528年)に元長が高国12代将軍足義晴との和睦に動くと賢治と共に反対晴元反対するよう説得させ元長を窮地に立たせた。また、賢治が大和河内摂津などで高国派を征討しながら元長派の国人排除をした時も協力享禄2年1529年)に失望した元長が阿波帰国する代わりに阿波勢を率い立場置かれた。しかし、享禄3年1530年)に高国播磨から挙兵して賢治が暗殺され堺公方府が危機陥る晴元相談して元長を復帰させた。晴元命令で元長は東進する高国軍を迎え撃ち、翌享禄4年1531年)の中嶋の戦い大物崩れ高国討ち取り政局安定させた。 高国敗死後に元長が台頭する木沢長政茨木長隆らと結託して再び元長と対立享禄5年(1532年)に長政居城河内飯盛山城を元長と結んだ畠山義堯軍に包囲されると、晴元進言して一向一揆を起こさせて義堯・元長を討った天文錯乱)。以後長政長隆と共に細川政権重鎮となり、摂津榎並城主として室町幕府料所河内十七箇所を元長に代わって代官として統治した

※この「堺公方期」の解説は、「三好政長」の解説の一部です。
「堺公方期」を含む「三好政長」の記事については、「三好政長」の概要を参照ください。

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