堺公方との対立と追放とは? わかりやすく解説

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堺公方との対立と追放

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/31 22:51 UTC 版)

畠山稙長」の記事における「堺公方との対立と追放」の解説

大永2年においては高屋城焼失するなど、稙長の統治安泰とはいえなかった。稙長の支持者であった高国大永6年1526年)の桂川原の戦い以降内紛悩まされる中、享禄元年1528年)、稙長の高屋城反高国派の柳本賢治によって陥落させられ堺公方政権の下で高屋城畠山義堯のものとなった享禄4年1531年)には高国大物崩れにおいて自刃するなど稙長は苦境に立たされるが、義堯細川晴元家臣三好元長結んで晴元対立し天文元年1532年)に両者晴元加勢し一向一揆攻められ自刃追い込まれた(享禄・天文の乱)。 ところが、晴元12代将軍足義晴和睦し義堯の元家臣晴元寝返っていた木沢長政もまた義晴方に転じると、稙長は義晴奉じる姿勢取りつつも、高国の弟で細川晴国決起するとこれを支持し天文3年1534年1月石山本願寺との同盟し自身の弟である基信を本願寺入れた。 しかし、守護代である遊佐長教晴元との融和考え同年8月には稙長の弟・長経が義晴御内書得て長教に擁立されており、この間に稙長は紀伊追放ないし出奔したものと思われる。ただし、稙長に付き従った重臣丹下盛賢知行宛行を持つ文書発給し続けており、守護としての軍事動員その後保持し続けている。また、紀伊湯河玉置衆は反本願寺派として熊野衆と対立していたが、稙長は両者の関係修復努めている。 長経は天文4年1535年)ないし5年1536年)頃には消息がわからなくなり(『足利季世記』では家人毒殺されたとされ、後の軍記系図では犯人遊佐長教木沢長政としているが裏付けはない)、弟の晴熙(播磨守)が擁立されている。しかし、長経と違い、晴熙は幕府から家督承認受けた史料見られず、正式に義晴晴元から家督として承認されなかった可能性がある。 そのためか、天文7年1538年)、晴熙に代わって、畠山晴満弥九郎)という人物当主擁立されている。晴満と総州家当主畠山在氏それぞれ河内半国守護として置いた尾州家総州家実力者である長教と長政一向一揆などの脅威備えるため両畠山氏和睦動きこのような体制構築したのであるが、実権2人握っていた。この晴満という人物の母方伯父は「典厩」とされており、また、晴宣・晴熙・政国・基信と違い本願寺資料で稙長の弟とは書かれておらず、系図などにも名前が見えないため、この晴満の伯父典厩晴元細川典厩家細川晴賢であり、晴元側の息の掛かった人事である可能性がある。この晴満の擁立に不満を示したのか、同年8月には稙長と丹下盛賢河内へ向かうことを計画し、この時期上洛目的としている尼子晴久本願寺音信交わしており、更に高国残党である細川氏綱庇護していた。

※この「堺公方との対立と追放」の解説は、「畠山稙長」の解説の一部です。
「堺公方との対立と追放」を含む「畠山稙長」の記事については、「畠山稙長」の概要を参照ください。

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