典厩家
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 15:50 UTC 版)
細川氏(京兆家)の分家の一つ。細川満元の三男持賢を祖とする。当主が官途とした右馬頭・右馬助の唐名にちなんで典厩家と呼ばれる。基本的に守護として分国を有することはなく、初期には京兆家において内衆(重臣衆)を束ねる役割を果たしていたようだが、後に摂津国西成郡(中嶋郡)の分郡守護を務めた。 持賢は13歳で京兆家を継いだ勝元を補佐し、2代当主政国(野州家細川持春の子)も9歳で京兆家を継いだ政元の幼少時の後見役であった。3代政賢は永正の錯乱の際に細川澄元に与して細川高国と対立したが船岡山合戦で戦死した。その後は高国与党であった尹賢(野州家分家細川春倶の子)が継承した一方、澄元側も政賢の嫡男澄賢を擁立したが、澄賢は大永元年(1521年)に死去した。享禄4年(1531年)、高国が澄元の遺児細川晴元との抗争の末に滅亡し、それ以前に晴元側に寝返っていた尹賢も晴元と不和となって殺害された。 京兆家当主の座を奪った晴元に対し、細川氏綱(尹賢の子)は高国の後継者として天文7年(1538年)以降抗争を続けていたが、三好長慶が氏綱を擁立して晴元から離反し打倒した。氏綱は室町幕府最後の管領と言われるが、近年の研究では管領就任は史実ではないとされる一方で、三好政権に対して一定の立場・発言力を保持しており、単なる傀儡でもなく同盟者に近かったと指摘されている。 典厩家の当主は弟の藤賢が継承して将軍足利義輝・義昭に仕えた。織田信長と反目した義昭が挙兵した際にはこれに従って抗戦したが、その後は信長に降伏し近江国坂本城の守備を任された。信長滅亡後は豊臣秀吉に仕えた。氏綱の子藤次は豊臣氏の後、細川忠興・細川忠利に仕え、その子頼次は妹が対馬府中藩主宗義成の室だった縁で同藩に仕えた。藤次の弟元賢からは重賢、乗賢と続き、子孫は金沢藩士(加賀前田家家臣)として幕末に至った。
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