堺公方府の興亡とは? わかりやすく解説

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堺公方府の興亡(大永・享禄年間)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 07:25 UTC 版)

戦国時代 (日本)」の記事における「堺公方府の興亡(大永享禄年間)」の解説

大物崩れ」および「堺公方」を参照 永正18年/大永元年1521年)、高国阿波出奔した義稙代えて播磨から足利義澄長男足利義晴招聘12代将軍に就任させた。大永5年1525年)、高国家督嫡男細川稙国譲った10月亡くなり、再び政務復帰した高国政権は、高国細川家内衆との関係が拗れたことにより崩壊向かった大永6年1526年7月高国内衆香西元盛阿波細川澄元嫡男細川晴元方への内通疑い自害させた。これをきっかけに元盛の兄弟波多野元清柳本賢治高国から離反し晴元通じ足利義維義賢→義維→義冬。以下義維で統一)を擁する晴元12月畿内先遣隊渡海させた。晴元方は上洛戦を前に入念な調略行っていた。高国派の但馬守護・山名誠豊因幡守護山名豊治攻撃させ、同じく高国派の伊勢国司・北畠晴具牽制するため、伊勢の国衆を高国不支持纏め上げていた。更に高国懇意であったはずの六角氏とも縁談進めるなど広範囲なものだった晴元勢は大永7年1527年2月桂川合戦勝利し高国義晴と共に近江逃れた高国主導政治体制崩壊し同年3月に堺に上陸した義維・晴元堺公方府と近江義晴高国対峙する公方体制成立した同年10月義晴高国近江六角定頼越前朝倉宗滴とともに上洛戦を行ったが、京都奪還することは出来ず義晴高国は再び近江退いたその後地方流浪した高国享禄3年1530年)に播磨浦上村宗支援得て上洛戦を開始。翌享禄4年1531年)、高国宗は摂津晴元方の諸城攻略し近江六角定頼高国与同上洛姿勢見せた劣勢になった晴元阿波より三好元長召喚し高国宗と対峙させた。元長は高国宗と共に従軍していた播磨守護赤松晴政離脱させることにより高国宗勢を崩壊させることに成功天王寺の戦い高国宗勢を撃破し高国自害させた。しかし堺公方府内では政権構想について意見の対立があり、その結果公方府は瓦解し晴元は義維ではなく義晴推戴することになった

※この「堺公方府の興亡(大永・享禄年間)」の解説は、「戦国時代 (日本)」の解説の一部です。
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