堺公方府の興亡(大永・享禄年間)
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「戦国時代 (日本)」の記事における「堺公方府の興亡(大永・享禄年間)」の解説
「大物崩れ」および「堺公方」を参照 永正18年/大永元年(1521年)、高国は阿波に出奔した義稙に代えて播磨から足利義澄の長男、足利義晴を招聘し12代将軍に就任させた。大永5年(1525年)、高国は家督を嫡男の細川稙国に譲ったが10月に亡くなり、再び政務に復帰した。 高国政権は、高国と細川家の内衆との関係が拗れたことにより崩壊に向かった。大永6年(1526年)7月、高国は内衆の香西元盛の阿波の細川澄元の嫡男・細川晴元方への内通を疑い自害させた。これをきっかけに元盛の兄弟の波多野元清・柳本賢治が高国から離反し晴元に通じ、足利義維(義賢→義維→義冬。以下義維で統一)を擁する晴元は12月に畿内へ先遣隊を渡海させた。晴元方は上洛戦を前に入念な調略を行っていた。高国派の但馬守護・山名誠豊を因幡守護・山名豊治に攻撃させ、同じく高国派の伊勢国司・北畠晴具を牽制するため、伊勢の国衆を高国不支持で纏め上げていた。更に高国と懇意であったはずの六角氏とも縁談を進めるなど広範囲なものだった。 晴元勢は大永7年(1527年)2月の桂川合戦に勝利し、高国は義晴と共に近江に逃れた。高国主導の政治体制は崩壊し、同年3月に堺に上陸した義維・晴元の堺公方府と近江の義晴・高国が対峙する両公方体制が成立した。同年10月、義晴と高国は近江の六角定頼・越前の朝倉宗滴とともに上洛戦を行ったが、京都を奪還することは出来ず義晴と高国は再び近江に退いた。その後地方を流浪した高国は享禄3年(1530年)に播磨の浦上村宗の支援を得て上洛戦を開始。翌享禄4年(1531年)、高国と村宗は摂津で晴元方の諸城を攻略し近江の六角定頼も高国に与同し上洛の姿勢を見せた。劣勢になった晴元は阿波より三好元長を召喚し高国・村宗と対峙させた。元長は高国・村宗と共に従軍していた播磨守護・赤松晴政を離脱させることにより高国・村宗勢を崩壊させることに成功。天王寺の戦いで高国・村宗勢を撃破し、高国を自害させた。しかし堺公方府内では政権構想について意見の対立があり、その結果公方府は瓦解し晴元は義維ではなく義晴を推戴することになった。
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