堺公方の消滅とは? わかりやすく解説

堺公方の消滅

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/13 09:36 UTC 版)

平島公方」の記事における「堺公方の消滅」の解説

挽回期する管領細川高国摂津国にて撃破自害にまで追い込んだ晴元であったが、この後徐々に変心した。空位となった管領の座についたばかりか突如として義維を棄て義晴将軍推戴する側に回ったのである。しかも、新管領晴元は自らの保身のため、それまで晴元軍の中核であった有力被官三好氏弱体化図り和泉国顕本寺敵対宗派一向一揆に襲わせている。顕本寺根拠地としていた三好氏総帥三好海雲入道は、義維を阿波国逃がし、自らは自害した。 こうして、堺公方消滅した将軍就任の夢を断たれた義維は、細川持隆迎えられ天文3年1534年)に西光寺入りその後平島館へ移る。阿波人々が、足利家の子孫を「平島公方」と呼ぶ起源となった

※この「堺公方の消滅」の解説は、「平島公方」の解説の一部です。
「堺公方の消滅」を含む「平島公方」の記事については、「平島公方」の概要を参照ください。

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