堺公方の系譜
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/15 03:31 UTC 版)
これに遡る永正17年(1520年)にも、阿波の細川澄元・三好之長軍が摂津に侵攻し、細川高国が近江に落ち延びたことがあった。時の将軍足利義稙は疎隔の生じていた高国をこの際見限り、澄元の細川管領家(京兆家)家督を認めた。 ところが、澄元が病に臥せってしまう一方、高国が近江守護六角定頼らの加勢を得て盛り返し、形勢は逆転する。京都等持院の戦いで阿波勢は大敗を喫し、之長は捕われて切腹、澄元は阿波へ逃げ戻った。澄元には、かつて阿波細川家から京兆家の養子に入り、永正の錯乱の過程で家督を継いだものの1年足らずで高国にその地位を追われた過去があったが、失地回復はついにならず、7歳の息子聡明丸(後の晴元)を遺して32歳で病没した。 こうなると、高国から澄元に鞍替えした将軍義稙もその座に留まりがたく、翌年京都を出奔する。実子の無い義稙は、養子を伴って堺から淡路国へ落ちていった。この養子が前の将軍足利義澄の遺児で、後の堺公方足利義維である。そして新将軍には、義澄のもう一人の遺児義晴が迎えられた。大永3年(1523年)、義稙は支援を求めて渡った阿波で死去した。義維・晴元の両人は、晴元の従兄である阿波守護細川持隆の庇護の下で成長したのである。 大永7年3月、京洛の戦況有利により足利義維と細川晴元の二人を擁する三好元長が堺に上陸した。元長は等持院の敗戦で自害した三好之長の孫である。父の三好長秀はそれ以前の永正6年(1509年)に討たれていたから、祖父之長の死後は、若い元長が三好一族の惣領となっていた。京兆家の分国である摂津・丹波から義維・晴元方に帰参した国衆が堺を訪ねてきたが、その中で特に茨木長隆は元長から晴元の筆頭奉行人に抜擢された。 同年7月、義維は従五位下左馬頭に任じられる。これは代々の将軍の叙位任官の先例に沿うものであり、やがて上洛の暁には将軍交代もあると踏んだか、京都の諸権門・公家は義維を「堺公方」「堺大樹」と呼んだ。左馬頭任官以前から奉行人奉書の発給も始まっていた。かつて都落ちをする義稙に付き従った少数の幕府吏僚がいたことがそれを可能にしたのである。堺公方は体制を固めつつあった。
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