阿波での逼塞
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/07 08:09 UTC 版)
義維は阿波細川氏の庇護を受けて、阿波の平島荘に滞在し、3千貫の所領を得た。そのため、義維は平島公方と称された。だが、義維は以後、阿波において長らく逼塞を余儀なくされた。 堺公方の崩壊後、義晴と晴元の協力する体制が構築され、しばらくの間続いた。だが、天文12年(1543年)7月に高国の後継者である細川氏綱が挙兵し、畿内の情勢が混乱すると、その協調関係も陰りが見えるようになった。 天文15年(1546年)12月、義晴と晴元がついに決裂し、義晴は六角定頼を頼り、近江に去った。そして、義晴は坂本において、嫡子・義輝の元服を行い、将軍職を譲った。だが、晴元は義晴の裏切りの報復として、阿波に逼塞していた義維を擁立した。 天文16年(1547年)2月25日、義維は重臣を堺に派遣し、本願寺の法主・証如に対して、上洛のための協力を依頼した。義維は将軍を戴く氏綱や遊佐長教に対抗するため、劣勢であった晴元やその家臣・三好長慶(元長の嫡子)らの旗頭になって畿内に進出しようとし、復権を目論んだ。 だが、六角定頼はこの事態に頭を悩ませた。定頼にとって、義晴は晴元とともにこれまで支えてきた同志であり、義輝もまた自身が烏帽子親を務めた人物だった。一方の晴元もまた、自身の息女が嫁いだ娘婿であり、近しい存在であった。もし、晴元に味方すれば、義輝の将軍としての権威を否定し、義維を将軍として認めることになってしまうからであった。そのため、定頼は義晴・義輝父子と晴元を和睦させることにした。 7月29日、義晴・義輝父子は六角定頼の仲介のもと、晴元と坂本で和睦した。この和解により、晴元の支援していた義維は立場がなくなった。 11月3日、義維自らが阿波より出陣し、堺への渡海を強行した。だが、証如から相手にされず、晴元からの説得もあり、12月1日に義維は堺から淡路に退去し、そして阿波に帰還した。 結局、戦況は晴元・長慶方の有利に傾いていたため、義維の出る幕はなかった。他方、晴元の家臣・長慶が一連の戦いで台頭し、やがて晴元に代わる存在となっていった。 天文17年(1548年)8月、長慶は晴元に対して、一族の三好政長・政生父子の誅罰を求めたが、晴元が反発したため、9月に決裂した。そして、長慶は晴元に対抗すべく、細川氏綱を擁立した。 天文18年(1549年)6月、義晴・義輝父子が京から近江に逃れ、7月に長慶が氏綱を奉じて入洛した。その後、義晴は京都の奪還を目指したが、天文19年(1550年)5月に水腫によって死去し、戦いは義輝に引き継がれた。 天文21年(1552年)1月、義輝は長慶と和解し、近江から京都へと帰還した。また、義輝は細川氏綱を細川氏の当主と認めて晴元と決別したため、晴元は見捨てられる形となり、若狭へと逃れた。一方、この争いの中で、阿波の義維が長慶に擁立されることはなかった。 天文22年(1553年)3月8日、義輝が長慶との和約を破棄して、三好氏と断交し、晴元と組んだ。だが、8月に長慶は義輝を破り、京から近江朽木へと追いやった。この間、義維を阿波で庇護していた細川持隆が長慶の弟・三好実休によって殺害されている。 10月29日、義維は長慶から上洛を促された。長慶は大阪本願寺に「今、四国室町殿が上洛の準備をしている」と伝えたほか、さらには加賀国内にある将軍家直轄領に関して、義維の上洛後はその滞在費に充てるために三好氏が管理する、とまで伝えている。長慶としては義輝の追放直後、義維を新たに擁立する選択肢があったことが伺える。このとき、長慶は本気で義維を擁立するつもりであり、義輝に対して全面対決の姿勢を見せた。 だが、義維は長慶の上洛要請に応じなかった。おそらく、義維は自身を庇護していた持隆が三好実休に殺害されたことから、その兄である長慶をはじめ、三好氏を信用することができなかったと考えられている。 その後、義輝が守護を動員して自身の包囲網を作ろうともせず、また播磨守護の赤松晴政が長慶を頼ってきたりしたため、長慶は義維を擁立する必要性を失った。また、六角氏や畠山氏との友好関係を維持するためにも、義維の擁立という選択肢はなくなった。結局、長慶は足利将軍家の人物を擁立せず、京や畿内を支配する道を選んだ。 永禄元年(1558年)12月、義輝と長慶との間に和睦が成立し、義輝が京へと帰還した。他方、長慶は御相伴衆に加えられたほか、一門もまた高位の幕臣として厚遇されたため、三好氏は義輝と協調する道を選んだ。 結局、義維は畿内の情勢に関わることなく、阿波平島に逼塞し続けた。だが、義維の側近・畠山維広(安枕斎守肱)は、 三好実休とともに堺の豪商の茶会にたびたび出席しており、阿波三好氏との友好関係が構築されていた。実休は持隆を殺害したことにより、守護家を上回る権威を持つ平島公方に接近し、その関係を重視したと考えられる。そして、三好本宗家が義輝の排除に動く一方、阿波三好氏は平島公方と関係を結び、ひいてはその擁立に動くことになった。
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