阿波の木村氏
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平治の乱で源義朝は敗れその子頼朝(13歳)や義経(1歳)や兄弟今若や乙若は武門の習いとして殺される定めであったが平頼盛の母池の禅尼に命を助けられた。源平の戦で平頼盛は平家一門として共に戦うが宗盛の一門都落ちには従わず都に留まった。源平の戦に勝利した頼朝は池の禅尼から受けた恩義に報いた。文治2年(1186年)閏7月22日、源頼朝により阿波国天領麻殖保の保司に任命された平康頼と共に2人の平姓を名乗る者が行動を共にし、家人の鶴田氏を加えて4人が同国森藤の地に下向して善政を行ったと言う。しかし頼朝も落馬が元で亡くなり三代実朝が公暁に殺されると好機と見た後鳥羽上皇は承久の乱を起こすが圧倒的な鎌倉の大軍に敗れた。平保盛の子保教(内蔵頭・左兵衛左・木工頭)は石清水八幡で自害をしている。阿波国守護となった小笠原長房氏により上皇に味方した康頼の嫡男・平清基は麻殖保の保司職を解任された。平を名乗る2人は百姓となることで生存だけは許されたが、百姓が平姓を名乗っていくことまでは許されなかった。一人は木邑氏(現・木村)を名乗り、他の一人は田室氏(現・田村)を名乗った。家紋は両家共に丸に抱き茗荷である。平家の紋は丸に抱き茗荷であったらしく、平家の末裔とされる長田氏も同様の家紋を用いている。茗荷は冥加の字にあてられたもので神仏の御加護を願うものだという。 阿波国ではこの頃から藍作りの歴史が始まる、見性寺記録に依れば、宝治元年(1247)に見性寺を開基した翠桂和尚が、美馬郡岩倉(脇町)の寺地で染葉(藍)を栽培し、衣を染めたことが記されている。百姓となった木邑氏も藍作りの産業としての成功の可能性は検討しただろ。文安2年(1445)には大量の葉藍が阿波から兵庫の港に荷揚げされた(兵庫北関入船納帳)。平安時代から続く慈眼山玉林寺の僧は木邑氏を藍玉造の根源だとしている。 藍作りも順調に行って居ただろうが、戦国時代に当時木邑本家を名乗っていた者や多くの木邑氏が何処かへ行ってしまった。藍作りはこの地に留まる木邑氏に託された。大阪鶴橋の向かいに同じ木邑氏を名乗る木邑権右衛門と言う百姓の家がある。織田信長は天下布武の印を使用し平信長を名乗るようになる。木邑本家に断わり無く平氏を名乗る筈はない。それに相応しい者で平を名乗りたい者が名乗ってくれればよい、百姓の木邑が平を名乗っては先祖を辱める、木邑氏は平を名乗らないのだから。 天保の大飢饉で大塩平八郎の乱に加わった木村司馬之輔の本家である木邑権右衛門も同じ木邑姓を名乗っていたが、これは、大坂夏の陣で討ち死にをした木村長門守重成に繋がると言う。平八郎の祖父は阿波藩筆頭家老稲田氏の家臣の出で木邑氏が平であることは識っていたであろう、平八郎が一族の命運を賭けねばならぬ戦いに権右衛門を誘ったのは源平交代論で源氏を名乗る徳川を倒すのは平氏であるから、木邑氏を北面の武士平氏として担ごうとしたのであろう。権右衛門は準備が調わず拒否する代償として五百両を出した。乱自体は半日で終息するものであったが幕府に与えた影響は激甚であった。阿波にもこの根拠もない源平交代論を信じる者が居て極悪の末として木邑氏および田室氏の根絶を計ろうとした。当時の第12代藩主蜂須賀斉昌は子作りばかりに能の在ったオットセイ将軍の第二十二子斉裕を養嗣子に迎え井伊直弼の姉穠姫を正室として迎えていたので阿波藩は南紀派であった。だが筆頭家老の稲田氏は尊皇派であった。また木邑氏は一橋派である。 大塩平八郎の乱の後、勘兵衛の父総本家四代目茂兵衛および母と多くの木邑一門が亡くなり多くの子供たちが亡くなった、殺されたとは言えなかったのであろう、徳川南紀派の仕業である、親が殺されたのなら仇討ちをしなければならない。阿波藩には藍作りで多大な貢献をしてきたがそれに対する余りもの仕打ちである。だが阿波で私怨で事は起こせない、一族が皆殺しにされてしまう、野盗の頭の首などを採ってもしょうがない。 木邑氏は京都の外山氏と縁戚がある、また水戸藩徳川斉昭の母は外山氏である。その水戸藩に安政5年8月8日に孝明天皇は幕政改革を指示する勅書を下賜した。天皇の命なら北面の武士木邑氏として戦える、南紀派に対抗し一橋慶喜の将軍継承に与した、一橋派の天狗党として結集させ、藍での蓄えは総て軍資金とし、父四代目茂兵衛と母の墓と向かい合わせに自らの墓を建てて行った。この天狗党に多くの木邑氏が加わり凄惨な殺し合いが行われ南紀派により斬首されたり獄死をするなどして多くの犠牲者を出し義民として靖国神社に合祀をされている。慶喜は将軍にはなれたが大政奉還をして徳川幕府は滅んだので、多くの犠牲者に何も報いてやることは出来ずに維新の捨て石とさせてしまった。 明治天皇はご存知であった、勘兵衛を孝子に叙し恩賜の剣と共に一歳の昭和天皇の御写真を御真影として下賜された、孝子とは親に孝行をしたと言う事であるが親の仇討ちをしたと言う事である。天皇家にも無かったただ一枚の御真影、直接目にするとしもじもの者などその御威光に撲たれて目が潰れてしまうと言われていて誰にも見せられなかった。その御写真はWikipedia昭和天皇で旭日旗を持つ一歳の昭和天皇の御写真が見られる。 その後阿波藩第14代藩主蜂須賀茂韶は徳川慶篤の娘・随子を継妻に迎えた、この時、茂韶には11人の側室がおり、随子は嫁ぐに際して11人すべてに暇を出すことを条件に出したという。また、随子はかつて松平大和守と婚約していたため、「二夫にまみえず」の女訓から肉体関係を持つことを拒み、侍女として萩原きょうという美女を連れて嫁ぎ、自分の身代わりとして扱うよう求めたという。結婚前に側室より生まれていた蜂須賀正韶の嫡母として遇され、正韶の妻には随子の縁で徳川慶喜の娘・筆子(随子の従妹)が迎えられた。 この事から木邑氏は水戸藩を通じて阿波藩とも縁戚となっていた。孝子に叙された勘兵衛への御真影を受けた民太郎は幕末の出来事の総てを腹の内に収めて逝った。 維新の頃から、木邑氏は大姓である木村氏を詐称する様になり、田室氏は大姓である田村氏を詐称する様になった、木邑氏と田室氏の姓を残しておけば誰かがまた平氏として担ぎ出そうとするかも解らない、木邑氏と田室氏の姓は歴史から抹消された。平民となる木村氏と田村氏を詐称させておけば北面平氏である木邑氏と田室氏を平民に出来る、また平として力を持たれても困る、新政府下級武士らの知恵だろう。自らは華族だ士族だ卒族だとの爵位を称した。(『大塩研究 第44号』「「猪飼野探訪」案内記」附 釈淨円墓碑破却の顛末 足代健二 天保二辛卯初秋建焉 木邑権右衛門(註3))[2]
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