阿波の木村氏とは? わかりやすく解説

阿波の木村氏

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/12 08:02 UTC 版)

木村氏」の記事における「阿波の木村氏」の解説

平治の乱源義朝敗れその子頼朝13歳)や義経1歳)や兄弟今若乙若武門習いとして殺される定めであった平頼盛の母池の禅尼に命を助けられた。源平の戦で平頼盛平家一門として共に戦うが宗盛一門都落ちには従わず都に留まった。源平の戦に勝利した頼朝池の禅尼から受けた恩義報いた文治2年1186年)閏7月22日源頼朝により阿波国天領麻殖保の保司任命され平康頼と共に2人平姓名乗るが行動を共にし、家人鶴田氏加えて4人が同国森藤の地に下向して善政行ったと言う。しかし頼朝落馬が元で亡くなり三代実朝公暁殺される好機見た後鳥羽上皇承久の乱起こす圧倒的な鎌倉大軍敗れた平保盛の子保教(内蔵頭左兵衛左・木工頭)は石清水八幡自害をしている。阿波国守護となった小笠原長房氏により上皇味方した康頼の嫡男・平清基は麻殖保の保司職解任された。平を名乗る2人百姓となることで生存だけは許されたが、百姓平姓名乗っていくことまでは許されなかった。一人は木邑氏(現・木村)を名乗り、他の一人は田室氏(現・田村)を名乗った家紋両家共に丸に抱き茗荷である。平家の紋は丸に抱き茗荷であったらしく、平家末裔とされる長田氏同様の家紋用いている。茗荷冥加の字にあてられたもので神仏御加護を願うものだという。 阿波国ではこの頃から作り歴史が始まる、見性寺記録に依れば、宝治元年(1247)に見性寺開基した翠和尚が、美馬郡岩倉脇町)の寺地で染)を栽培し、衣を染めたことが記されている。百姓となった木邑氏も作り産業としての成功可能性検討しただろ。文安2年(1445)には大量阿波から兵庫の港に荷揚げされた(兵庫北関入船納帳)。平安時代から続く慈眼玉林寺の僧は木邑氏を藍玉造の根源だとしている。 作り順調に行って居ただろうが、戦国時代当時木邑本家名乗っていた者や多くの木邑氏が何処か行ってしまった。作りはこの地に留まる木邑氏に託された。大阪鶴橋向かいに同じ木邑氏を名乗る木邑右衛門と言う百姓の家がある。織田信長天下布武の印を使用し平信長名乗るうになる。木邑本家断わり無く平氏名乗る筈はない。それに相応しい者で平を名乗りたい者が名乗ってくれればよい、百姓の木邑が平を名乗って先祖辱める、木邑氏は平を名乗らないのだから。 天保の大飢饉大塩平八郎の乱加わった木村司馬之輔の本家である木邑右衛門も同じ木邑姓を名乗っていたが、これは、大坂夏の陣討ち死にをした木村長門守重成に繋がると言う平八郎祖父阿波藩筆頭家老稲田氏家臣出で木邑氏が平であることは識っていたであろう平八郎一族命運賭けねばならぬ戦い右衛門誘ったのは源平交代論で源氏名乗る徳川を倒すのは平氏であるから、木邑氏を北面の武士平氏として担ごうとしたのであろう右衛門準備が調わず拒否する代償として五百両を出した。乱自体半日終息するものであった幕府与えた影響激甚であった阿波にもこの根拠もない源平交代論を信じる者が居て極悪の末として木邑氏および田室氏の根絶計ろうとした。当時第12代藩主蜂須賀斉昌子作りばかりに能の在ったオットセイ将軍第二十二子斉裕を養嗣子迎え井伊直弼の姉穠姫正室として迎えていたので阿波藩南紀派であった。だが筆頭家老稲田氏尊皇派であった。また木邑氏は一橋派である。 大塩平八郎の乱の後、勘兵衛の父総本家四代目茂兵衛および母と多くの木邑一門亡くなり多くの子供たちが亡くなった殺されとは言えなかったのであろう徳川南紀派仕業である、親が殺されたのなら仇討ちをしなければならない阿波藩には作り多大な貢献をしてきたがそれに対す余りもの仕打ちである。だが阿波私怨で事は起こせない、一族皆殺しにされてしまう、野盗の頭の首などを採ってもしょうがない。 木邑氏は京都外山氏と縁戚がある、また水戸藩徳川斉昭の母は外山氏である。その水戸藩安政5年8月8日孝明天皇幕政改革指示する勅書下賜した。天皇の命なら北面の武士木邑氏として戦える、南紀派対抗し一橋慶喜将軍継承与した一橋派天狗党として結集させ、での蓄え総て軍資金とし、父四代目茂兵衛と母の墓と向かい合わせに自らの墓を建てて行った。この天狗党多くの木邑氏が加わり凄惨な殺し合いが行われ南紀派により斬首されたり獄死をするなどして多く犠牲者出し義民として靖国神社合祀をされている。慶喜将軍はなれた大政奉還をして徳川幕府滅んだので、多く犠牲者に何も報いてやること出来ず維新捨て石とさせてしまった。 明治天皇ご存知であった勘兵衛孝子叙し恩賜の剣と共に一歳の昭和天皇の御写真御真影として下賜された、孝子とは親に孝行をしたと言う事であるが親の仇討ちをしたと言う事である。天皇家にも無かったただ一枚御真影直接目にするしもじもの者などその御威光に撲たれて目が潰れてしまうと言われていて誰にも見せられなかった。その御写真Wikipedia昭和天皇旭日旗を持つ一歳の昭和天皇の御写真見られるその後阿波藩第14代藩主蜂須賀茂韶徳川慶篤の娘・随子を継妻迎えた、この時、茂韶には11人の側室がおり、随子は嫁ぐに際して11人すべてに暇を出すことを条件出したという。また、随子はかつて松平大和守と婚約していたため、「二夫にまみえず」の女訓から肉体関係を持つことを拒み侍女として萩原きょうとい美女連れて嫁ぎ自分身代わりとして扱うよう求めたという。結婚前側室より生まれていた蜂須賀正韶嫡母として遇され、正韶の妻には随子の縁で徳川慶喜の娘・筆子(随子の従妹)が迎えられた。 この事から木邑氏は水戸藩通じて阿波藩とも縁戚となっていた。孝子叙され勘兵衛への御真影受けた太郎幕末出来事総て腹の内収めて逝った。 維新の頃から、木邑氏は大姓である木村氏詐称する様になり、田室氏は大姓である田村氏詐称する様になった、木邑氏と田室氏の姓を残しておけば誰かがまた平氏として担ぎ出そうとするかも解らない、木邑氏と田室氏の姓は歴史から抹消された。平民となる木村氏田村氏詐称させておけば北面平氏である木邑氏と田室氏を平民出来る、また平として力を持たれても困る、新政府下武士らの知恵だろう。自らは華族士族卒族だとの爵位称した。(『大塩研究44号』「「猪飼野探訪案内記」附 釈淨円墓碑破却顛末 足代健二 天保辛卯初秋建焉 木邑右衛門(註3))[2]

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