阿波の統治
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/08 09:36 UTC 版)
元亀3年(1572年)には不仲となった篠原長房を、異父兄である守護の細川真之と協力して同年内に攻め滅ぼした(上桜城の戦い)。だが、強権を振りかざす長治の治政に対し、讃岐国の香川之景や香西佳清らは連名で実弟の十河存保に離反を警告する書状を送りつけたため、これを憂えた存保からも長治の暴政について諫言を受けている。だが、これを疎んじた長治は却って存保を無視して兵3,000人を以って香川・香西両氏を攻め、両氏の三好氏からの離反を決定的なものとした(「全讃史」)。 天正3年(1575年)、阿波全土の国人や領民に対して法華宗への改宗を強要した。ところが、国人や領民の支持を失った上に他宗からの反感まで招き、阿波一国の支配力さえ喪失しかねない状態まで悪化した。このような国内の混乱は、隣国・土佐国の長宗我部元親による阿波侵攻を誘発、海部城や大西城などが落とされた。 天正4年(1576年)、守護・細川真之とも対立し、これに真之を支持する元親をはじめ、福良氏なども協力したため、長治は圧倒的に不利となる。 天正5年(1577年)3月28日、長宗我部元親の助力を得た細川真之と阿波荒田野で戦い、敗死した。享年25。 辞世の歌は、「三好野の 梢の雪と 散る花を 長き春(長治)とは 人のいふらむ」。
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