海部城
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/03/14 09:09 UTC 版)
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海部城 (徳島県) |
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別名 | 鞆城 |
城郭構造 | 平山城 |
築城主 | 不明(海部友光?) |
築城年 | 永禄年間(1558年 - 1570年) |
主な改修者 | 海部友光(伝) |
主な城主 | 海部氏、蜂須賀氏 |
廃城年 | 寛永15年(1638年) |
遺構 | 石垣、郭 |
指定文化財 | 町指定史跡 |
位置 | 北緯33度35分40.0秒 東経134度21分28.6秒 / 北緯33.594444度 東経134.357944度座標: 北緯33度35分40.0秒 東経134度21分28.6秒 / 北緯33.594444度 東経134.357944度 |
地図 |
海部城(かいふじょう)は、徳島県海部郡海陽町にあった日本の城。別名は鞆城。海陽町指定史跡[1][2]。
概要
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永禄年間(1558年 - 1570年)に海部友光によって築かれたとされる[3]。
元亀2年(1571年)、長宗我部元親の弟である島親益の船が突風を避けるために海部城下の入江に入った。その為、当時の海部城主であった海部友光は親益の船を襲って親益を殺してしまう。
天正5年(1577年)、弟を殺され激怒した元親が海部城を攻略する。
江戸時代に入ると、蜂須賀家政が阿波国の領主となり、阿波九城となったが、一国一城令により寛永15年(1638年)廃城となる。
その後は海部郡の代役所が置かれ、文化4年(1807年)に現在の美波町に移されるまで繁栄した。
脚注
- ^ “海陽町公民館報 29号” (PDF). 海陽町. p. 12/16 (2011年2月). 2018年5月11日閲覧。
- ^ 『阿波新田氏』開国堂印刷所、1937年。p169
- ^ 『牟岐町誌』徳島県海部郡牟岐町、1936年。p168
参考文献
- 『角川日本地名大辞典 36 徳島県』(1986年 ISBN 4040013603)
- 『阿波新田氏』開国堂印刷所、1937年。
- 『牟岐町誌』徳島県海部郡牟岐町、1936年。
関連項目
海部城
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/11 22:57 UTC 版)
1575年長宗我部元親が陸路に侵入し、瓦を使っていた県内三城の内の一つ「海部城」が落城した。城主が姻族の加勢のため讃岐に出征中で、戦力不在のため無血開城だった。 木材の集散や海路の監視所として、海部川河口の「城山」は古くから重要拠点だった。城山はかつては周囲を海部川が巡り、海に臨む「島」だった。戦後に埋め立て造成が進んだ。ここに城が築かれたのはいつなのか、諸説あっても根拠の提示はなされていない。 戦時中は城山山麓に大規模な退避壕を構築。城山山上には陸軍の監視所が設置され、監視員のための防空壕が構築された。それらの作業は浅川以南の各町村から奉仕隊が交代で出動し、のべ人員は1万人を数えた。
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