四国・長宗我部問題とは? わかりやすく解説

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四国・長宗我部問題

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/15 03:29 UTC 版)

本能寺の変」の記事における「四国・長宗我部問題」の解説

これより前、土佐統一目指していた長宗我部元親は、信長砂糖などを献上して所領安堵された。信長は元親の嫡男弥三郎烏帽子親になって信の字の偏諱与えるなど友誼厚くし、「四国の儀は元親手柄次第に切取候へと書かれた朱印状出していた。信長当時阿波讃岐河内勢力を張る三好一党や伊予河野氏と結ぶ毛利氏対峙しており、敵の背後を脅かす目的長宗我部氏伸長促したのであるその際取次役となったのが明智光秀であり、明智家重臣斎藤利三の兄頼辰は、奉公衆石谷光政空然)の婿養子で、光政のもう1人の娘が元親の正室信親生母)であるという関係性にあった。 ところが、その後三好勢凋落し信長脅威ではなくなった。天正3年1575年)、河内高屋城籠城していた三好康長(笑岩)は、投降するとすぐに松井友閑を介して名器「三日月」献上して信長に大変喜ばれ一転して家臣として厚遇されるようになる。同じころに土佐統一した長宗我部氏は、天正8年6月には砂糖三千斤を献じるなど信長に誼を通じ意思示していた一方で阿波讃岐にまで大きく勢力伸ばして、笑岩の子康俊を降誘し、甥の十河存保攻撃していて、信長陪臣攻められる態ともなっていた。 笑岩は羽柴秀吉接近して、その姉の子三好信吉養嗣子貰い受けることで、織田家重臣である羽柴氏と誼を結んで長宗我部氏対抗した。笑岩の本領である阿波美馬三好の2郡が長宗我部氏奪われると、天正9年信長旧領回復訴えて織田家方針撤回されるように働きかけた。信長三好勢長宗我部氏調停称して、元親に阿波占領地半分返還するように通告したが、元親はこれを不服とした。 天正10年正月信長光秀を介して長宗我部土佐1国と南阿波2郡以外は返上せよという内容新たな朱印状出して従うように命じ斎藤利三石谷空然通して説得試みていたが、いずれも不調で、ついには信長三男神戸信孝総大将とする四国征伐が行われることになった信長四国政策の変更は、取次役としての明智光秀面目潰した早くも前年秋の段階阿波淡路での軍事活動開始していた節のある笑岩は、2月9日信長より四国出陣命じられ5月には織田勢の先鋒任命され勝瑞城入った三好勢一宮城夷山城落すと、岩倉城拠る康俊は再び寝返って織田側に呼応した。変の直前三好勢阿波半国の奪還成功した状態で、目前迫った信孝の出陣待っていた。元親は利三との5月21日付け書状で、一宮城夷山城畑山城からの撤退了承する土佐国入口にあたる海部城大西城については確保したいという意向示し阿波讃岐から全面撤退せよ態度硬化させた信長との間で瀬戸際外交続けられていた。

※この「四国・長宗我部問題」の解説は、「本能寺の変」の解説の一部です。
「四国・長宗我部問題」を含む「本能寺の変」の記事については、「本能寺の変」の概要を参照ください。

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