四国統一に向けての讃岐進攻
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/18 02:33 UTC 版)
「山崎山重」の記事における「四国統一に向けての讃岐進攻」の解説
山重は元親公の讃岐進攻にも従った。天正11年(1583年)十河城を落とした引田合戦において依光(頼光)四郎右衛門を討ち取った。その戦功で依光の領地130石を給わったが、その後討ち死にした。ほかに天正15年(1585年)10月の山北山川村(旧香我美町)の地検帳において3か所に槇山の山﨑勘解由左衛門(山重)の名があった。つまり、3か所に給地があった。後にこれらの給地に山重の息子たちは移住した。給地を合計すると、最大で230石以上あった。槇山における山重の居城は大森山の頂上にあり、槇山山崎城と呼ばれていた。
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