土佐統一とは? わかりやすく解説

土佐統一

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 05:48 UTC 版)

長宗我部元親」の記事における「土佐統一」の解説

元親は剽悍一領具足動員して勢力拡大を行う。長浜戦で敗れた本山茂辰は元親の攻撃押される一方となり、永禄3年末の段階現在の高知市における南西部一部除いてほぼ支配下置いた永禄4年1561年3月には本山方の神田・石立を落として茂辰を朝倉城吉良城追い込む土佐国司で幡多郡中村城中心に影響力持ち中村御所呼ばれていた一条氏共同し永禄5年1562年9月16日朝倉城攻めを行う。このときは茂辰の子で元親の甥に当たる本山親茂奮戦敗北した9月18日には鴨部宮前両軍決戦するが決着はつかなかった。だが勢力圏縮小から茂辰を見限って元親に寝返る家臣が相次ぎ永禄6年1563年1月に茂辰は朝倉城放棄して本山城に籠もった。この年美濃斎藤氏から正室迎え長弟の親貞に吉良氏を継がせている。また、次弟の親泰は国親の生前香宗我部氏継いでおり、土佐東部安芸郡支配する安芸国虎とも戦った本山方は5月頽勢挽回図って岡豊城攻撃企てる失敗永禄7年1564年4月7日には本山放棄して瓜生野城高知県長岡郡本山町瓜生野)に籠もって徹底抗戦する。だがこの最中に茂辰が病死。跡を継いだ親茂も抗戦する遂に敗れて永禄11年1568年)冬に降伏した。こうして土佐中部を完全に平定した。 元親は永禄10年1567年)の毛利氏の伊予出兵によって勢力激減させた一条兼定からの自立目論み、河野氏独自に戦勝祝いを送るなど独立性強めていった。永禄12年1569年)には八流の戦い安芸国虎滅ぼして土佐東部平定元亀2年1571年)、一条氏家臣津野氏滅ぼして三男の親忠を養子として送り込む天正2年1574年2月には一条家内紛介入して一条兼定追放して兼定の子内政に娘を嫁がせて「大津御所」という傀儡立てた。こうして元親は土佐国をほぼ制圧した天正3年1575年)に兼定伊予南部諸将率い再起図って土佐国攻め込んできたときは、一時窮地追い込まれたが、弟の吉良親貞尽力のもと、四万十川の戦いでこれを撃破し土佐国を完全に統一した

※この「土佐統一」の解説は、「長宗我部元親」の解説の一部です。
「土佐統一」を含む「長宗我部元親」の記事については、「長宗我部元親」の概要を参照ください。

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