土佐を統一した長宗我部家との結びつき
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「山崎山重」の記事における「土佐を統一した長宗我部家との結びつき」の解説
元親の祖父兼序(かねつぐ)の時代、居城であった岡豊城は吉良・大平・本山の連合軍によって攻められ、長宗我部家は討たれた。このとき、兼序の子千王丸(のちの国親)は6歳であった。千王丸は家来に導かれて幡多の一条氏に保護された。異説によると、岡豊城落城後、千王丸は大忍荘の槇山の山本氏あるいは専当氏に一時匿われていた。その後、専当左衛門大夫安家は槇山の諸名本(なもと)や一族を挙げて畑山氏(安芸国虎の家来)の前線となっていた東川に進出した。そこで別役三吉郎、末延小太郎、福万孫右衛門の3人の名本は降伏したが、これを迎え討った正延興兵衛は敗れ、その名田は後に山重の領地となった。このようにして山重は元親公の土佐統一にあたって戦功があり、永禄5年(1562年)に芳野城主であった長宗我部家中の若年寄野中親孝(通称:三郎左衛門)を通じて1町を給地され(「長宗我部元親知行宛行状」)、また正延(まさのぶ)城(旧香我美町正延名)の跡目(60石)を継ぐことを許された(「長宗我部元親相続安堵状」)。他に吉原村(旧吉川村吉原)に馬の飼領として7反30代、高瀬村(塩村)にて41石を給わった。給地とは長宗我部氏と主従関係を結んだことによって、支給された土地の所有者となり、給地登録人になったことを意味する。この給地登録人は一般には足軽の身分に相当するが、長宗我部時代には長宗我部氏から領地を与えられた領主を意味し、これを一領具足と呼んでいた。しかも一領具足は城持ちであった。野中親孝の父貞吉は楠目城主山田氏に仕えていたころ、韮生往還の要所を占める片地(かたじ)の陰山城主として間(はざま)に住んでいたが、1562年に間(はざま)に山重を在住させた。但し、その弟の太四郎の可能性もある。 槇山には山重の居城が大森山の頂上にあった。槇山山崎城と呼ばれていた。城址から西側下方に目をやると、大栃橋が見える。ここは物部川上流域の槇山郷や韮生郷とその下流域をつなぐ交通の要衝であり、ここを監視する役割を槇山山﨑城が担っていたと推察できる。長宗我部家の敵対勢力であった畑山氏を筆頭に安芸国虎の勢力が山を越えた南側に控えていたため、物部川上流域からの進攻に即応するためにも、この地の監視防衛は重要であった。敵の進攻が発見された場合、ここから10km下流域の芳野(吉野)にあった芳野城主野中三郎左衛門親孝(長宗我部家中において若年寄の地位にあり、この地域の代官職にあった)に知らせが入ったと思われる。現在、その城跡には城八幡神社が建っている 。『槇山風土記』に「近世に短刀を掘り出し、小社を造営して祀る」と記されており、城八幡創建の契機を確認できる。
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