土佐を統一した長宗我部家との結びつきとは? わかりやすく解説

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土佐を統一した長宗我部家との結びつき

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/18 02:33 UTC 版)

山崎山重」の記事における「土佐を統一した長宗我部家との結びつき」の解説

元親の祖父兼序(かねつぐ)の時代居城であった岡豊城吉良大平本山連合軍によって攻められ長宗我部家討たれた。このとき、兼序の子王丸(のちの国親)は6歳であった。千王丸家来導かれて幡多一条氏保護された。異説によると、岡豊城落城後、千王丸は大忍荘の槇山山本氏あるいは専当氏に一時匿われていた。その後専当左衛門大夫安家槇山の諸名本(なもと)や一族を挙げて畑山氏(安芸国虎家来)の前線となっていた東川進出した。そこで別役三吉郎、末延小太郎福万孫右衛門3人の名本は降伏したが、これを迎え討った延興兵衛敗れ、その名田は後に山重領地となったこのようにして山重は元親公の土佐統一にあたって戦功があり、永禄5年1562年)に芳野城主であった長宗我部家中の若年寄野中親孝通称三郎左衛門)を通じて1町を給地され(「長宗我部元親知行宛行状」)、また正延(まさのぶ)城(旧香我美町正延名)の跡目60石)を継ぐことを許された(「長宗我部元親相続安堵状」)。他に吉原村(旧吉川村吉原)に馬の飼領として7反30代高瀬村(塩)にて41石を給わった。給地とは長宗我部氏主従関係結んだことによって、支給され土地所有者となり、給地登録人になったことを意味する。この給地登録人は一般に足軽身分相当するが、長宗我部時代には長宗我部氏から領地与えられ領主意味し、これを一領具足呼んでいた。しかも一領具足城持ちであった野中親孝の父貞吉楠目城山田氏仕えていたころ、韮生往還要所占め片地(かたじ)の陰山城主として間(はざま)に住んでいたが、1562年に間(はざま)に山重在住させた。但し、その弟の太四郎可能性もある。 槇山には山重居城大森山頂上にあった槇山山崎城呼ばれていた。城址から西側下方目をやると、大見える。ここは物部川上流域槇山郷や韮生郷とその下流域をつなぐ交通の要衝であり、ここを監視する役割槇山山﨑城が担っていたと推察できる長宗我部家敵対勢力であった畑山氏を筆頭安芸国虎勢力が山を越えた南側控えていたため、物部川上流域からの進攻即応するためにも、この地の監視防衛は重要であった。敵の進攻発見され場合ここから10km下流域芳野吉野にあった芳野城主野中三郎左衛門親孝(長宗我部家中において若年寄地位にあり、この地域代官職にあった)に知らせ入った思われる。現在、その城跡には城八幡神社建っている 。『槇山風土記』に「近世短刀掘り出し小社造営し祀る」と記されており、城八幡創建契機確認できる

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