土佐へ漂着まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 03:19 UTC 版)
「サン=フェリペ号事件」の記事における「土佐へ漂着まで」の解説
1596年7月、フィリピンのマニラを出航したスペインのガレオン船サン=フェリペ号がメキシコを目指して太平洋横断の途についた。ガレオン船には100万ペソ(ガレオン船1隻の平均的建造費は7万8000ペソのためガレオン船12隻に相当)の財宝が積み込まれていた。同船の船長はマティアス・デ・ランデーチョであり、船員以外に当時の航海の通例として七名の司祭(フランシスコ会員フェリペ・デ・ヘスースとファン・ポーブレ、四名のアウグスティノ会員、一名のドミニコ会員)が乗り組んでいた。サン=フェリペ号は東シナ海で複数の台風に襲われて甚大な被害を受け、船員たちはメインマストを切り倒し、400個の積荷を海に放棄することでなんとか難局を乗り越えようとした。しかし、船はあまりに損傷がひどく、船員たちも満身創痍であったため、日本に流れ着くことだけが唯一の希望であった。 1596年8月28日(同年10月19日)、船は四国土佐沖に漂着し、知らせを聞いた長宗我部元親の指示で船は浦戸湾内へ強引に曳航され、湾内の砂州に座礁してしまった。大量の船荷が流出し、船員たちは長浜(現高知市長浜)の町に留め置かれることになった。 長宗我部元親は投棄されず船に残っていた60万ペソ分(ガレオン船1隻の平均的建造費は7万8000ペソのためガレオン船8隻に相当する財宝)の積荷を没収した。長宗我部元親は、日本で座礁、難破した船は、積荷とともにその土地へ所有権が移るのが日本の海事法であり、通常の手続きだと主張したが、南蛮貿易とそれに伴う富が四国に届くことはほとんどなかったことも判断に影響したとされる。 スペイン人乗組員が抗議すると、元親は、秀吉の奉行のうち、個人的な友人である増田長盛に訴えるよう言い渡した。船長であるマティアス・デ・ランデーチョはこれをうけて、2人の部下を京に派遣し、フランシスコ会の修道士と落ち合うように指示した。
※この「土佐へ漂着まで」の解説は、「サン=フェリペ号事件」の解説の一部です。
「土佐へ漂着まで」を含む「サン=フェリペ号事件」の記事については、「サン=フェリペ号事件」の概要を参照ください。
- 土佐へ漂着までのページへのリンク