土佐一条氏が南伊予へ侵入、宇都宮豊綱が呼応
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「毛利氏の伊予出兵」の記事における「土佐一条氏が南伊予へ侵入、宇都宮豊綱が呼応」の解説
1566年(永禄9年)、豊後国の大友氏は土佐一条氏と協力して、宇和郡の西園寺氏を攻撃した。これ以降、土佐一条氏の南伊予進攻が繰り返されることとなる。翌年の夏頃、喜多郡の宇都宮氏が河野氏に敵対する動きを見せ、郡内に不穏な空気が広がった。その宇都宮氏の騒乱を鎮圧すべく、河野氏家臣村上通康・平岡房実が出陣した。1567年(永禄10年)の3月頃には、宇都宮氏の諸城を攻略し、4日には大洲北方の上須戒城を奪取した。宇都宮氏の劣勢を知った一条兼定は軍勢を北上させ、宇都宮氏の支援を行った。 同年7月、一条軍は北上し、三間盆地を越えて宇和盆地の周辺にまで到達。河野軍は三間盆地に侵入し、小競り合いが起きた。(明間合戦)
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