土佐京都藩邸資料吾吉調書(新史料)
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「野老山吾吉郎」の記事における「土佐京都藩邸資料吾吉調書(新史料)」の解説
事件当日の6月5日、石川潤次郎、藤崎八郎を伴って七ツ時(午後4時)ごろ藩邸の門を出た吾吉郎一行は四条小橋の居酒屋で飲食した後、四条橋の酒屋で夕刻まで飲酒。一度、潤次郎と離れた後、四条寺町の本屋にて日本外史(頼山陽著)を求めるも取扱いがなく、川原四条の貸本屋にて水を一杯飲んだ後、八郎と伴に池田屋を訪れ、望月亀弥太らと宴席に出席していたところ新撰組の奇襲に遭難した。酩酊状態ながらも抗戦し、脇差一本を残し大刀や袴は捕り手に打ち落とされるも三条河原に身を隠す事に成功する(創を負ったという記載はなし)。夜が明けぬ内に宮川町の揚茶屋に匿われたが、翌6日の昼に捜索の追手が来た事から熊野権現境内にある森升という居酒屋に移り、店の者を遣わせて石川潤次郎宛に手紙を届けた。潤次郎は池田屋にて闘死しており、代わりに潤次郎の足軽の六兵衛という者が森升を訪れたところ、吾吉郎は隠れ回るのも限界であることから自害の意思を伝えた。六兵衛に藩邸に戻るよう説得されたが「事件に関わったため、藩に居場所は無い」として藩邸に戻ることには応じず、自ら板倉槐堂を頼ることとなった。同日夕、槐堂からも自害することに反対を受け、まず長州藩邸に匿って貰った上で、後日に槐堂が迎えに行く提案をされた。その後、長州藩邸の所郁太郎を頼ったところで調書は終了している。
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