土佐一国の領主としてとは? わかりやすく解説

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土佐一国の領主として

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/12 03:32 UTC 版)

山内一豊」の記事における「土佐一国の領主として」の解説

慶長6年1601年)、掛川から土佐移封となり、浦戸城入城する。一領具足中心とした旧長宗我部氏家臣団は新領主反発し土佐国内で多く紛争旧主長宗我部盛親復帰求めるなど)を起こした浦戸一揆滝山一揆など)。これに対して一豊は、1601年3月1日新国入城祝賀行事として、桂浜相撲興行し士民観覧させた。東の甲浦から西の宿毛にいたる国中から取手招いたので、大勢見物人集まった。一豊はかねてから浦戸一揆関与していた一領具足庄屋調査していたので、これらの人々のうちから、リスト載っていた73人を捕まえて種崎浜辺で磔にした。一方で新規召し抱え家臣上方募るなど、重要な役職を主に外来家臣固めたが、有益な長宗我部旧臣懐柔して登用した。当時はまだ土佐領内不満分子が完全に排除されていなかった為、高知城築城の際などには一豊と同装束六人衆影武者として共に現地視察した高知平野内の大高坂山城跡に統治中心拠点として高知城築城し、城下町の整備行った領民に対して食中毒気遣い刺身食べることを禁じたという話が伝わる。それに対し領民表面のみをあぶり、刺身ではないと言い繕って食すようになった。これが鰹のタタキ起源だとされている。 慶長8年1603年)、豊臣姓を下賜されて、従四位下・土佐守に叙任された。 慶長10年1605年)、高知城にて病死した。享年61法名大通院殿心峯宗伝大居士墓所高知県高知市天神町日輪山真如寺山内家墓所京都市右京区花園妙心寺町正法妙心寺大通院。 現在、高知城には(右上写真にある)一豊が騎馬姿で持った姿の銅像建てられている。

※この「土佐一国の領主として」の解説は、「山内一豊」の解説の一部です。
「土佐一国の領主として」を含む「山内一豊」の記事については、「山内一豊」の概要を参照ください。

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