土佐へ帰国し東虎と改名
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乾退助の水戸浪士隠匿事件に対して、「既に容堂公の承認があった」として不問に付された為、逆に立場が悪くなり、勤王派の藩士らからも信頼を失くした行秀は、慶応3年9月(1867年10月)、新留守居組20人扶持を給せられ、国詰を命ぜられ土佐へ帰国。北奉公人町の川崎邸内に寓居する。土佐に戻ってからの作刀には「東虎」と銘を打つ。密告が露顕して以降、中岡慎太郎ら土佐勤王党の一派は、特に行秀の行動を警戒し、さらに慎太郎と退助は相談し、慶応3年10月18日(太陽暦11月13日)、乾退助は谷干城に宛て、左行秀の不穏な行動に注意するよう書簡を送っている。 …過日豊永久左衛門(左行秀)、関東より僕が中村(中村勇吉)への私簡を携来り、榎派に合して姦を為し申候。実に無由にて今に始めず殆ど姦術に係り申し候。(中略)然るに右、久左衛門なる者、近日又東行仕趣、京師に至ても何等の姦を為し候も難図(はかりがたく)、関東迄も同断之義ニ付、精々御用心可被成、其故に申上候間屹度御覚悟被成度奉存候。心事固(もと)ヨリ筆頭に難尽候。御推察可被下候。恐惶再拝。 — 乾退助
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