左行秀
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左 行秀(さの ゆきひで、1813年12月17日(文化10年11月25日) - 1887年(明治20年)3月5日)は、日本の江戸時代末期の刀鍛冶[1]。新々刀の名匠。土佐正宗の異名を持つ幕末の土佐藩を代表する名工[2]。作刀期は1840年(天保11年)~1870年(明治3年)。士族。
- ^ a b 『明治維新人名辞典』
- ^ a b c d 『左行秀と固山宗次その一類』片岡銀作著、大風印刷、2000年
- ^ 五佐衛門は又左衛門の誤読とも。伊藤又左衛門は星丸の刀工。
- ^ 異説「伊藤又兵衛盛重の嫡子」とも。
- ^ 豊永氏、本貫は肥前国松浦郡豊永庄
- ^ a b c d e f g h i j k 『左行秀の新研究』橋田庫欣著(所収『刀剣美術』第118-123号)、日本美術刀剣保存協会、1966年11月-1967年3月
- ^ 水心子正秀の門弟
- ^ a b 「行秀は筑前の鍛工にして名手の聞へあるより、水通丁三丁目の鍛冶七兵衛(関田勝廣)と云へるもの之を請し、己が家に住ましめ其術を学ばせ居しが、後藩に挙げられ士籍となり、のち東武(江戸)沙村に住めり。其水通にありし頃(近藤)長次郎(家の)近隣なれば、日々彼の鍛場に遊び懇切なりし」(河田小龍著『藤陰略話』)より。
- ^ 東京都江東区北砂1-2
- ^ 『幕末維新(第5編)』山内家史料刊行委員会編纂、672頁
- ^ a b 『板垣退助君伝 第1巻』栗原亮一、宇田友猪著、自由新聞社、1893年
- ^ 「筑前の刀鍛冶で我藩(土佐)に召抱へられて居る豊永久左衛門と云ふ者が江戸に居た。私(退助)は之と入懇にし、一寸義侠心があるらしく見受けたから之にも山田(平左衛門)等にも力を合す様頼み置いた」(『無形伯旧夢談』板垣退助談、田岡髪山筆録)
- ^ a b “『板垣精神 : 明治維新百五十年・板垣退助先生薨去百回忌記念』”. 一般社団法人 板垣退助先生顕彰会 (2019年2月11日). 2021年7月5日閲覧。
- ^ 『維新土佐勤王史』瑞山会編「乾(退助)が江戸築地藩邸の空舎に關東浪士を隠匿せしめたる事件にてありしなり。是れより先き、彼の乾(退助)が、浪士の跡始末(世話)を壮年血気の山田喜久馬、小笠原謙吉、別府彦九郎等に託して西上するや、浪士一人來り二人來り、漸く其頭数を加へしより、賄料に缼乏し、山田などは鍛冶橋藩邸の留守居役に就きて其の扶助を申し入れぬ。留守居役の宮井俊蔵は、江戸定府の佐幕派なれば乾と浪士の関係を睥睨し藩廰の命なき以上は扶助し難しと拒みしに山田等は無頓着にも土佐より來りし乾の書簡を示し、且つ宮井に迫りて曰く『乾は大監察(大目付)たり。何ぞ之を軽視するや』と。是に於て宮井は右の書簡を以て藩邸に抱への刀鍛冶・左行秀(豊永久左衛門)の土佐へ歸るに託し先づ之を京師藩邸出張重役・寺村左膳(佐幕派)へ密告せしむ。而して行秀の高知へ着するや、横田源作なる者、行秀より右の事實を聴収し、遂に佐幕派の耳に入れり。行秀、平生侠氣ありと称せられ、乾(退助)の江戸に在る時、亦、(退助は)行秀に實を告ぐ(水戸浪士隠匿を打ち明ける)。故に佐幕派は略(ほ)ぼ、その秘密(浪士隠匿と薩土討幕の密約)を知るを得て『乾こそは討幕を唱ふるのみならず、已に私に(独断で)同志の浪士輩を隠匿せしめたる』と(藩内佐幕派の)攻撃甚だ猛烈なりき」1218頁。
- ^ 『土佐維新史料』書翰篇(1)
- ^ 板垣退助『維新前後経歴談』(所収『維新史料編纂会講演速記録(1)』159頁、『板垣退助君戊辰戦略』他より。
- ^ 『明治功臣録』明治功臣録刊行會編輯局、大正4年(1915年)
- ^ a b 『坂本龍馬全集』
- ^ a b 『陸援隊始末記』平尾道雄著
- ^ 「大禮服竝ニ軍人警察官吏等制服著用ノ外帶刀禁止の太政官布告」
- ^ 左行秀の墓石は、境内入口より見て左奥にの墓地内で、墓地入口より前進すると、下に向かう階段の手前左横に所在。行秀と妻・寿満(すま)、次男・末秀と一緒に葬られている。
- ^ 『板垣退助君戊辰戦略』(附編『左行秀の裏切り』)
- ^ 『飛騰』高知県立坂本龍馬記念館だより第62号(2007年7月)
- ^ 甲藤馬太郎の子孫に伝わる
- ^ 『坂本龍馬・中岡慎太郎両先生暗殺事件について』谷干城談(明治39年龍馬追弔会に於いて)この講演の中で、谷は前段「当時の土佐の景況についてひととおりお話を申し上げておきたい」として、土佐藩の内情の説明。藩論が統一されておらず、佐幕保守党、佐幕開国党、尊王攘夷党の三つ巴に派閥が分かれており、その中で上士と下士を調和させ、開国党と攘夷党を融和させたのが龍馬と慎太郎の両人である」とし「両人が一時に殺害に遭ふたは、土佐藩はもとより天下の不幸である」と語っている。さらに慶応3年9月以降の左行秀の不審な行動(水戸浪士隠匿の密告など)を取り上げ、行秀が龍馬暗殺犯と内通していたのではないかと考察している。(『陸援隊始末記』平尾道雄著)
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