勤王派との不和と廃刀令
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/28 20:37 UTC 版)
明治3年(1870年)、「庶民の帯刀を禁止令」、明治5年(1872年)、断髪と士族の脱刀を促す「散髪脱刀令」が公布され、明治9年(1876年)3月28日、太政官より「帯刀禁止令」が布告される。行秀は「明治3年8月日」の作刀を最後に刀鍛冶を引退し、以降は刀を造ることは無かった。 刀剣書籍などでは「廃刀令により廃業」と記されることが多いが、軍刀や銃器などの需要もある中で、彼ほどの名工が廃業した本当の理由は、かつて水戸浪士隠匿事件を密告した事から勤王志士らに「裏切り者の刀」として忌避されたことが挙げられる。戊辰戦争で板垣退助率いる迅衝隊士の中には、品質が良いため行秀作の刀を佩刀する者もいた一方で、実際多くの刀が所有者の手を離れて売りに出された。「刀は武士の魂である」と云われ「己の命を預ける刀」の作者が勤王に対する裏切り者では如何にも体裁が悪く、刀の本来の出来栄えにも関わらず、一時は不遇の時代を過ごしたからである。
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