勤王派の討幕計画を密告
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/28 20:37 UTC 版)
左行秀は武力討幕派の乾退助が水戸浪士を藩邸内に隠匿し、挙兵討幕の策を立てている事に驚愕。「このような稀有壮大な策が成功する訳がない」と腰を抜かして狼狽し自らに罪が及ぶのを恐れ、「乾退助が江戸築地の土佐藩邸(中屋敷)に天狗党残党(筑波浪士)中村勇吉、相楽総三、里見某らを隠匿し、薩摩藩が京都で挙兵した場合、退助らの一党が東国で挙兵する」との計画を立ている事を示す乾退助が中村勇吉に宛た書簡の写しを証拠として附し藩邸役人に密告した。(実際にこの浪士たちが、同年10月土佐藩から薩摩藩へ移管され庄内藩などを挑発し戊辰戦争の前哨戦・江戸薩摩藩邸の焼討事件を巻き起こす事になる)江戸藩邸の役人は、慶応3年9月9日(1867年10月6日)、在京の土佐藩重役・寺村左膳にこの事実を報告。左膳は山内容堂へ、乾退助が中村勇吉に宛た書簡の写しを添えて報告し、退助の失脚を狙った。「この事が容堂公の耳に入れば、退助の命はとても助からないであろう」と言う話を漏れ聞いた清岡公張(半四郎)は、土佐勤王党の一員であった島村寿太郎(武市瑞山の妻・富子の弟で、瑞山の義弟)に乾退助を脱藩させることを提案。島村が退助に面会して脱藩を勧めた。しかし、退助は容堂の御側御用役・西野友保(彦四郎)に対し、水戸浪士を藩邸に隠匿していることは、既に5月22日(薩土討幕の密約締結を報告の際)に自ら容堂公へ申し上げている事であるため、既に覚悟は出来ており御沙汰を俟つのみであると返答している。果たしてこれに対して容堂は「退助と云ふ男は粗暴であるが、為す事は一点も私利は無い。皆、天下を思ふ精神より出る。此度の事件も決して咎めるに及ばぬ」と答えたため不問に付される。
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