勤工倹学運動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/02/07 15:16 UTC 版)
1914年、李石曽は蔡元培らとフランスで「留法西南維持会」を、翌1915年には「勤工倹学会」・「華法教育会」を結成し、本格的に勤工倹学運動を開始した。1916年、雑誌『旅欧』を創刊している。翌年12月に帰国し、国立北京大学の招聘を受けて生物学と社会学の教授を務めた。1919年(民国8年)には、中国側で「留法勤工倹学会」を組織し、翌1920年(民国9年)に北京で私立中法大学を創設して董事長となっている。同年中には再びフランスへ赴き、呉敬恒らとリヨン中法大学を創設し、1923年には李が理事長兼校長代理を務めた。 1924年(民国13年)1月、李石曽は中国国民党第1期中央監察委員に選出され、以後第6期まで連続してこの地位に選ばれた。同年11月、対ロシア(ソビエト連邦)庚子賠償(義和団事件賠償)委員会中国委員代理を務める。翌年、国民党中央政治委員会委員に任命された。孫文(孫中山)死後、党内での李は反共右派の立場をとったが、西山会議派には与していない。1926年(民国15年)、段祺瑞による学生デモ弾圧事件(「三・一八惨案」)が発生すると、段からデモ首謀者の1人として指名手配を受けてしまう。そのため、南下して国民政府に合流し、教育行政委員会委員などを務めた。
※この「勤工倹学運動」の解説は、「李石曽」の解説の一部です。
「勤工倹学運動」を含む「李石曽」の記事については、「李石曽」の概要を参照ください。
- 勤工倹学運動のページへのリンク