中国同盟会への参加
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まもなく呉敬恒はイギリスに渡り、ロンドンで孫文(孫中山)と出会う。呉は孫の思想に傾倒し、1905年(光緒31年)冬、中国同盟会に加入した。翌1906年(光緒32年)12月、呉は張静江(張人傑)・李石曽(李煜瀛)らとパリに移り、「世界社」という団体を結成した。1907年(光緒33年)6月には週刊誌『新世界』を刊行し、民主革命と同時に無政府主義の学説を宣伝した。1909年(宣統元年)、呉はロンドンに戻り、英語や銅版写真技術など様々な分野の学術・芸術を習得している。 辛亥革命が勃発すると、呉敬恒は急遽帰国し、1912年(民国元年)1月、南京に在った孫文の下に駆けつけた。孫は呉に教育総長の地位を提示したが、呉は固辞し、全国読音統一会会長に就任して中国語の表記方法の改善に尽力。1913年(民国2年)の第二革命(二次革命)で革命派が敗北すると、呉は再び欧州に赴く。 1915年(民国4年)夏、呉敬恒は李石曽・蔡元培・汪兆銘(汪精衛)らとパリで「留法倹学会」や「華法教育会」を組織し、勤工倹学運動を展開した。1917年(民国6年)、呉は羅馬字母派だったため、偏秀派の王照読音統一会副会長と議論がまとまらず、結局章炳麟の考案した注音字母で決定し、『国音辞典』を商務印書館から刊行した(1920年(民国9年)には北京政府教育部から発行されている)。1921年(民国10年)には、リヨン中法大学を創設し、呉が校長となった。
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