中国同盟会と武装蜂起とは? わかりやすく解説

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中国同盟会と武装蜂起

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/06 17:00 UTC 版)

黄興」の記事における「中国同盟会と武装蜂起」の解説

黄興孫文初めての会見は、宮崎滔天計らいよるもので、1905年7月下旬のことである。孫文は、7月19日ヨーロッパから横浜到着し5日ほど逗留してから東京向かった孫文との会見神楽坂楽園という中華料理店行われ革命派合同話題はそこで出たものであった8月黄興華興会は、孫文一派興中会章炳麟一派光復会とともに麹町富士見において孫中山孫文歓迎大会経て大同団結遂げ8月20日霞ヶ関坂本金弥代議士邸で中国同盟会成立会が開かれた同盟会の総理は、黄興推挙するというかたちで孫文就任し黄興庶務部長張継司法部長汪兆銘評議部長となった。なお、庶務部・司法部・評議部は、行政権司法権立法権三権対応していた。同盟会は、「滅満興漢民国革命」をスローガンとし、中国革命運動転機もたらした同盟会旗については、黄興孫文意見分かれた孫文推す青天白日旗対し黄興はそれは日本模倣となると反対し、「井字旗」を推した。これは、周代井田法に想を得たもので、これは田を井字形に9等分し周囲8区画を8家に与え中央の1区画を共同耕作地とする土地制度である。 清国政府日本政府対し執拗に孫文追放せよという圧力をかけ、日本政府はこれに抗しきれず、餞別持たせて日本退去させることとした。これに対し黄興孫文批判したが、とはいえ章炳麟がみずから主筆務め同盟機関誌民報」で餞別問題孫文批判展開しようとすることには反対した。結果として1907年3月孫文自主的に日本退去するかたちとなったが、黄興孫文したがった離日した孫文東南アジアに赴き、サイゴン現在のホーチミン市)やシンガポール分会つくった黄興もまた東南アジア遊説し党勢拡張党員指導にあたり南洋華僑より資金募集するとともに地下活動着手した1906年には、香港から桂林入り春に広西分会つくっている。1907年広東省欽州廉州潮州挙兵12月にはベトナム当時フランス領インドシナ国境に近い広西省鎮南関挙兵したが、いずれも失敗終わっている。鎮南関占領には成功したものの、そこに武器弾薬はなく、黄興孫文ともにおおいに失望している。1908年4月には雲南省河口蜂起があったが、シンガポールにいた孫文胡漢民派遣したものの烏合の衆であることが判明し黄興派遣した黄興ハノイにいた鎮南関のときの同志200名を差し向けようとしたが、フランス官憲逮捕されハノイ華僑尽力によりようやく釈放された。 ことごとく挙兵失敗した黄興東南アジア逃亡した後に日本渡り上述同盟機関紙民報編集所(新宿区新小川町)に潜伏して機を伺った

※この「中国同盟会と武装蜂起」の解説は、「黄興」の解説の一部です。
「中国同盟会と武装蜂起」を含む「黄興」の記事については、「黄興」の概要を参照ください。

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