中国同盟会と武装蜂起
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黄興と孫文の初めての会見は、宮崎滔天の計らいによるもので、1905年7月下旬のことである。孫文は、7月19日にヨーロッパから横浜に到着し、5日ほど逗留してから東京に向かった。孫文との会見は神楽坂の鳳楽園という中華料理店で行われ、革命派大合同の話題はそこで出たものであった。8月、黄興の華興会は、孫文一派の興中会と章炳麟一派の光復会とともに麹町の富士見楼において孫中山(孫文)歓迎大会を経て、大同団結を遂げ、8月20日、霞ヶ関の坂本金弥代議士邸で中国同盟会の成立会が開かれた。同盟会の総理は、黄興が推挙するというかたちで孫文が就任し、黄興が庶務部長、張継が司法部長、汪兆銘が評議部長となった。なお、庶務部・司法部・評議部は、行政権・司法権・立法権の三権に対応していた。同盟会は、「滅満興漢・民国革命」をスローガンとし、中国革命運動に転機をもたらした。同盟会旗については、黄興と孫文の意見は分かれた。孫文が推す青天白日旗に対し、黄興はそれは日本の模倣となると反対し、「井字旗」を推した。これは、周代の井田法に想を得たもので、これは田を井字形に9等分し,周囲の8区画を8家に与え,中央の1区画を共同耕作地とする土地制度である。 清国政府は日本政府に対し執拗に孫文を追放せよという圧力をかけ、日本政府はこれに抗しきれず、餞別を持たせて日本を退去させることとした。これに対し、黄興は孫文を批判したが、とはいえ、章炳麟がみずから主筆を務める同盟会機関誌「民報」で餞別問題で孫文批判を展開しようとすることには反対した。結果として、1907年3月、孫文が自主的に日本を退去するかたちとなったが、黄興は孫文にしたがった。離日した孫文は東南アジアに赴き、サイゴン(現在のホーチミン市)やシンガポールで分会をつくった。黄興もまた東南アジアを遊説し、党勢拡張と党員指導にあたり、南洋華僑より資金を募集するとともに地下活動に着手した。1906年には、香港から桂林に入り、春には広西分会をつくっている。1907年、広東省欽州・廉州・潮州で挙兵、12月にはベトナム(当時はフランス領インドシナ)国境に近い広西省鎮南関で挙兵したが、いずれも失敗に終わっている。鎮南関占領には成功したものの、そこに武器・弾薬はなく、黄興・孫文ともにおおいに失望している。1908年4月には雲南省河口で蜂起があったが、シンガポールにいた孫文は胡漢民を派遣したものの烏合の衆であることが判明し、黄興を派遣した。黄興はハノイにいた鎮南関のときの同志200名を差し向けようとしたが、フランス官憲に逮捕され、ハノイの華僑の尽力によりようやく釈放された。 ことごとく挙兵が失敗した黄興は東南アジアへ逃亡した後に日本へ渡り、上述の同盟会機関紙「民報」編集所(新宿区新小川町)に潜伏して機を伺った。
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