中国同盟会、黔軍加入とは? わかりやすく解説

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中国同盟会、黔軍加入

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/08/07 02:48 UTC 版)

朱紹良」の記事における「中国同盟会、黔軍加入」の解説

最初は旧学を学んでいたが、17歳時に福建陸軍小学入学し2年後南京陸軍第4中学進学した。まもなく日本留学することになり、東京振武学校にまず入学する1910年宣統2年)、東京中国同盟会加入した翌年9月朱紹良は父の喪に服すために帰国したが、ちょうど武昌起義辛亥革命)が勃発し漢口赴いて革命派加わった1912年民国元年初めに上海の滬軍都督府で参謀に任ぜられている。同年冬に福建省戻り福建陸軍小学教官となった翌年第二革命二次革命)が勃発すると、も反袁世凱のため革命派加わったが、敗北して日本亡命した再来日後は、まず宇都宮砲兵14連隊実習積み翌年陸軍士官学校第11期砲兵科学んだ。このときの同学には、何応欽谷正倫賀耀組がいる。 1916年民国5年)に卒業した朱紹良は、何応欽随従して貴州省入りし、黔軍(貴州軍)に加入した以後、黔軍総司令王文華から目をかけられ、王が率いる第1師で参謀長に任ぜられる。軍人教育成果をあげ、王の四川出征でも帷幕作戦立案し1917年民国6年12月重慶衛戍司令兼任した。このときの働きぶりにより、は「黔軍の小諸」と称されたという。 1920年民国9年)、王文華四川追われ部下谷正倫らに命じて貴州省武力制圧を行わせた(民九事変)。このときの貴州督軍は王の伯父である劉顕世であったため、批判恐れた王は上海退避し朱紹良もこれに随従した。しかし翌年3月北京政府結んだ王配下の袁祖銘放った刺客により王は暗殺されてしまう。失意は、これ以後、黔軍を離れることになった

※この「中国同盟会、黔軍加入」の解説は、「朱紹良」の解説の一部です。
「中国同盟会、黔軍加入」を含む「朱紹良」の記事については、「朱紹良」の概要を参照ください。

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