中国周辺諸国の律令
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/18 01:57 UTC 版)
唐と同様の体系的法典を編纂・施行したことが実証されるのは日本だけである。律令を制定できるのは中国皇帝だけであり、中国から冊封を受けた国には許されないことだったが、日本は冊封を受けておらず独自に律令を制定した。 日本では、唐の脅威にさらされた7世紀後期、国力の充実強化を目的として、律令の概念が積極的に受容され、まず先駆的な律令として飛鳥浄御原令が制定された。ついで、701年の大宝律令により律令の完成を見た。しかし、757年に施行された養老律令以降、新たな律令は制定されなかった(追加法として刪定律令・刪定令格が制定された事があるが程なく廃止されている)。格式は、本来唐では律令と同時に制定されたが、日本では大宝律令が制定されてから例・式といったかたちで随時公布されていた。9世紀から10世紀にかけて格式の法制整備が進み、弘仁格式・貞観格式・延喜格式(三代格式)が編纂された。その後、律令格式に基づく統治体制が限界を迎え、地方の国司や有力者への大幅な権限委譲による統治体制へと転換したため、格式が編纂されることもなくなった。 統一新羅などの朝鮮半島の国が、唐や日本と同様の「律令」を編纂・施行したことはない。新羅は自前の律令は制定せず、唐律令を採用していたが、独自色の強い格を多数制定することにより、新羅独特の国家体制を築いたとする見解が日本の東洋史学界では通説化している。一方で、包括的な「律令体制」と部分的受容とは分けて考えるべきであり、部分的という意味では新羅律令は存在していたとする見解が韓国学界では通説となっている。10世紀に朝鮮を統一した高麗は独自に律令を制定し、これも唐と宋の律令を引き写した内容であったとされるが、現物が存在せずに異説もある。 ベトナムは長らく中国王朝の支配を受けており、形式上は中国王朝の律令が適用されていた。李朝期(11世紀)に北宋から事実上の独立を果たし、独自の律令格式を制定するようになった。次の陳朝でも律令法典が制定された。その後、明に服属する時期もあったが、黎朝が再度、中国王朝から独立した15世紀には、律令格式が積極的に編纂された。次の阮朝も19世紀前期に律令を制定している。 その他、8世紀頃に唐周辺に見られた諸国(渤海や吐蕃)は、自前の律令は制定しなかったが、唐律令制を積極的に受容・改変し、独自の律令制を立てていた。また、10世紀に現れた遼(契丹)や12世紀に現れた金も律令制も採用し、独自の律令を制定していた。
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