中国の律令制
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/18 01:57 UTC 版)
歴史上最初の律令は、中国の西晋が268年(泰始4年)に制定した泰始律令である。内容は大部分失われているが、編纂にあたった杜預は、律は罪名、令は事制という区分を打ち出し、逸文もまたこの区分を裏切らない。ここにおいて、社会規範を規定する律と統治体制を規定する令が明確に区別され、体系的な統一法典としての律令が登場することとなった。西晋が滅亡した後も南北朝時代の諸王朝によって律令が制定・公布された。 中国を再統一した隋の文帝は、581年に開皇律令を公布したが、これは高度に体系化・整備された内容を持ち、律令の一つの完成形とされている。文帝の次の煬帝や隋に代わって中国を統一した唐の皇帝たちも律令を制定・公布したが、これらは開皇律令を概ね踏襲している。中国史上、律令制が全盛を迎えたのは、隋から唐中期にかけての時期とされている。 律令を運用していく中で、律令に規定していない状況が生まれたり、律令の法理と現実の状況が乖離することがある。そのため、律令の規定を補足・改正する格(きゃく)や律令や格を実際に施行する上での細則である式(しき)が制定されるようになった。これを格式(きゃくしき)というが、唐2代皇帝の太宗が制定した貞観格式が最初の格式である。なおこの頃、唐の強い影響のもとで、日本や新羅において律令制定の動きが見られた。(後述#中国周辺諸国の律令を参照。) 国家体制としての律令制は、唐後期までに崩壊していたが、それでも律令格式という法体系は基本法典として存続し、宋でも編纂された。だが、モンゴル系の元では律令は編纂されず、明では律令格式は編纂されたものの、清では令に相当する法令は制定されず、皇帝の勅や会典などが令の役割を果たすようになった。
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