中国の律宗
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/11 21:35 UTC 版)
中国では、日本と異なり、正式な僧となるには戒律を修めなければならなかったため、古くから研究が行われた。 東晋に、『十誦律』『四分律』『摩訶僧祇律』などの戒律が漢訳されると、戒律の研究が本格化した。北魏では、法聡が四分律宗を開宗した。その後、地論宗に属する慧光(468年 - 537年)が律宗の勢力を拡張した。 唐代には南山律宗を開いた道宣が出て、『四分律行事鈔』を著述して戒律学を大成した。道宣は、慧光の系統に属しており、その門下からは、文綱・周秀・道世・弘景らの僧が出た。文綱の孫弟子である鑑真は、留学僧の要請で日本に律を伝えたとされている。 一方、法礪(569年 - 635年)が『四分律』を研究し、相部宗を開いた。その弟子の懐素(624年 - 697年)は、法礪の『四分律疏』を批判して新疏を著わし、東塔宗を開宗した。 その後、相部宗と東塔宗は衰退し、南山宗のみが栄えて、宋代まで伝承された。一方で、義浄三蔵が、多くの律書を漢訳したが、律宗の展開には影響しなかった。
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