勤皇党、福岡藩掌握
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/29 02:45 UTC 版)
両者は対立を続けたまま、1864年に筑前勤皇党が藩政を掌握し、八月十八日の政変の際に京を落ち、長州藩から政変により太宰府天満宮に逃れた三条実美以下七卿・供として付いた土方久元以下元土佐勤皇党の面倒を見たり、長州討伐を前に長州藩を説得したり、西郷隆盛や高杉晋作の間に立ち薩長同盟の世話をするなど、一時は幕末の主役に立っていた。月形は西郷・坂本・桂小五郎といった大物と親しかったとされている。また加藤は薩長同盟の際、両藩の仲立ちを頼まれるなど大いに活躍、筑前勤皇党の名を知らしめた。しかし、中村は同志にすら敬遠されるほどの過激な勤皇論者であり、不遜の罪を受けて投獄されるほどであった。この彼の行動が悲劇を呼ぶ原因の一つとなる。 長溥にしてみれば、勤皇党は自分の言うことを聞かず勝手をしているように見えて、いい気分はしなかったが、自分自身「勤皇」の点では意見が同じなのでそのままにしておいた。ところがこれが誤解を受けることになる。
※この「勤皇党、福岡藩掌握」の解説は、「乙丑の獄」の解説の一部です。
「勤皇党、福岡藩掌握」を含む「乙丑の獄」の記事については、「乙丑の獄」の概要を参照ください。
- 勤皇党、福岡藩掌握のページへのリンク