勤皇活動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/19 10:19 UTC 版)
幕末の三河地方では政治刷新に対する藩士の意識が低かったものの、吉田藩の羽田野敬雄、田原藩の渡辺崋山、岡崎藩の深見篤慶、稲武の古橋暉皃、刈谷の村上忠順・忠明親子、碧南の山中信天などは国学による尊皇運動に共鳴していた。刈谷藩は佐幕派が大勢を占めていたため、忠順は表立った勤皇活動は行っていないものの、その主義とするところは曲げなかった。 天誅組に加わった松本奎堂や宍戸弥四郎に影響を与え、文久3年(1863年)に天誅組の攘夷倒幕が失敗した際には江戸幕府の追及から逃れてきた志士を匿っている。息子の村上忠明は尊攘運動家であり、松本奎堂の門人となっているが、文久3年(1863年)に天誅組が挙兵した際には帰郷中で参加していない。忠順は1868年(明治元年)に有栖川宮熾仁親王の命を受けて江戸に従行し、明治政府への出仕を命じられたものの、これを辞して国学研究や作歌に専念した。
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