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深見篤慶


深見篤慶

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/02/08 08:42 UTC 版)

深見篤慶の畫像(兒島基隆畫)

深見 篤慶 (ふかみ あつよし、文政11年11月8日1828年12月14日〉 - 明治14年〈1881年3月25日) は、江戸時代後期から末期、明治時代初期の商人[1][2]

生涯

24歳のとき三河国碧海郡新堀村の刈谷藩用達木綿問屋深見善恕の養嗣子となり、刈谷藩侍講村上忠順国学を学び女婿となる。忠順の子忠明が松本奎堂[注釈 1]らと交わるに及び天誅組の資金を供給。京都の志士の活動費として有栖川宮家へ献納した総額は二万余両に及んだ。

維新後は神社創建修復・学校創設に私費を投じ、明治5年額田県学校幹事・酒人神社祠官となる。忠順のために珍書古籍を蒐集し、自らも国学や和歌の書を出版刊行した。さらに、忠順の蔵書を収蔵する書庫として自費を投じて1874年(明治7年)に千巻舎(ちまきのや)[注釈 2]を建立した。

幼名友三郎。通称は藤十。号は松塢。

1936年(昭和11年)11月に遺稿『遺徳顕彰会「深見篤慶先生」』が出版された際に本多光太郎は同郷の人物として序文を寄稿している。

脚注

注釈

  1. ^ 松本奎堂は尾張国沓掛村の伊藤両村に師事している。
  2. ^ 土蔵造りの主屋と桟瓦葺きの下屋からなる。主屋は外部を大壁として柱を見せず、軒も垂木を見せない漆喰塗り、下部は東面を除いて縦桟打ちの下見板が張られている。内部は中央に敷居を置いて南北2室に分割されており、東面の出入口を除いて三方に窓等の開口部はなく、壁面より1尺2寸幅の書棚が4段めぐる。下屋は3室に分かれ、中央の間が主屋への出入口となっている。主屋の南から西側には下見板張り、漆喰塗りの土塀がめぐる。

出典

  1. ^ 近世名古屋書肆の営業展開 (PDF) 名古屋芸術大学研究紀要第33巻 (2012)
  2. ^ 『愛知県史 資料編20 近世6 学芸』 (PDF) 日本思想史学45 (2013)

参考資料

外部リンク



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