勤王党弾圧
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文久2年(1862年)12月、土佐勤王党の間崎哲馬、平井収二郎、弘瀬健太が、青蓮院宮親王の令旨を奉じ、土佐の藩政改革を企てる(青蓮院宮令旨事件)。江戸でこの事件を知った山内容堂は激怒し、間崎らを国許へ送還し、幽閉した。 文久3年(1863年)4月、土佐に帰国した容堂は、攘夷派の弾圧を開始する。まず、乾(板垣)退助、平井善之丞、小南五郎右衛門、小笠原唯八ら、他藩士と交際し攘夷論を唱える上士たちを免職し、6月には先の青蓮院宮令旨事件の首謀者3名を切腹に処した。 京都で八月十八日の政変が起こると、弾圧はさらに激化し、武市瑞山、島村衛吉、久松喜代馬ら土佐勤王党の主立つ面々が投獄された。慎太郎も捕縛対象に含まれていたが、同志・足立行蔵から危機を知らされて脱藩し、辛くも窮地を脱した。
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勤王党弾圧
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勅使護衛の任に当たっていた半平太の留守中に京都で他藩応接役を務めていた平井収二郎は間崎哲馬、弘瀬健太とともに青蓮院宮から令旨を賜り、これを楯に国元にいる先々代藩主・山内豊資(藩主・豊範の実父)に働きかけて藩政改革を断行しようと動いていた。この頃、容堂は土佐勤王党の台頭に露骨に不快感を示し始めており、半平太を除く勤王党志士に対し、他藩士との政事交際を禁じる通達を出した。文久3年(1863年)1月25日に入京した容堂は、青蓮院宮から平井・間崎らの動きを知らされ「僭越の沙汰である」と激怒して両名を罵倒して罷免した上で土佐へ送還させた。 容堂は3月に土佐へ帰国すると直ちに吉田東洋暗殺の下手人捜索を命じ、土佐勤王党に同情的な大監察・小南五郎右衛門、国老・深尾鼎を解任し、大監察・平井善之丞は辞職を余儀なくされた。この頃の半平太はかねてより不和が生じていた薩摩と長州の融和に腐心していたが、土佐勤王党をとりまく情勢が険悪化する中、4月に半平太は薩長和解調停案の決裁を容堂に仰ぐために帰国する事となった。久坂玄瑞は危険であるとこれを止め、帰国せずに脱藩して長州へ亡命するよう勧めるが、半平太は亡命を拒否し、同志たちに諌死の決心を以て一藩勤王の素志を貫徹すべきであると告げて帰国した。 平井収二郎・間崎哲馬・弘瀬健太は入牢させられ、厳しく尋問された。帰国した半平太は三名の助命を容堂に嘆願するが、6月7日に死罪が決定し、翌8日に三人は切腹した。半平太は尚も望みを捨てずに容堂に謁見して藩政改革の意見書を提出するとともに国事を論じた。容堂は半平太を罰しないが意見を容れることもなかった。 8月18日に会津藩と薩摩藩による政変で長州藩が中央政界で失脚すると同時に、事態は一転し、勤王派は急速に衰退し、代わって公武合体派が主導権を握る。同時期に大和国で吉村虎太郎・那須信吾ら土佐脱藩浪士らを中心とする天誅組が挙兵するが、翌月には壊滅して吉村らは討ち死にしている(天誅組の変)。 尊攘派の情勢が急激に悪化する中、9月21日に「京師の沙汰により」の名目で半平太ら土佐勤王党幹部に対する逮捕命令が出され、半平太は城下帯屋町の南会所(藩の政庁)に投獄された。獄吏が半平太の人物に傾倒したために彼らに便宜を図ってもらえたとされ、獄吏らを通じて家族や在獄中の同志と秘密文書をのやり取りも可能となった。これにより、長期にわたる獄中闘争の中で同志の団結を維持し続けると共に、軽挙妄動を戒めた。取調べの際、上士である半平太は結審に至るまで拷問される事はなかったものの、軽格の同志たちは厳しく拷問された。半平太らはまだ捕らえられていない獄外同志やその他の協力者への連累を食い止めるべく吉田東洋暗殺事件を初めとした被疑事実を否認し続け、長い獄中闘争を耐えた。だが、京都に残留していた岡田以蔵が元治元年(1864年)4月に捕縛されて土佐に送還され、監察府の拷問に耐えかねて、京や大坂での天誅事件への関与やその実行者の名を次々と自白したことで事態は悪化し、新たな逮捕者が相次ぐこととなる。
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