吉田東洋暗殺とは? わかりやすく解説

吉田東洋暗殺

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/02 10:17 UTC 版)

人斬り (映画)」の記事における「吉田東洋暗殺」の解説

初日大映スタッフたちをにした五社監督演出本領見られるのは、物語導入部吉田東洋暗殺シーンであるが、この凄惨な殺し現場を目にした以蔵が「人斬り」の本能目覚める最も重要な場面一つとなっている。 土佐藩執政吉田東洋扮するのは辰巳柳太郎で、従者と共に土砂降り夜道歩いているところを突然と現れ刺客土佐勤皇党の3人)に襲われるという長丁場死闘は、先ず不意打ちにあった従者血しぶきをあげて斬り殺されるところから始まる。 暗闇の中、3人の刺客取り囲まれ吉田東洋は、絶叫してかかって来る彼らの刀を払いのけ、水溜り泥まみれのたうち回り体ごと斬りかかる3人の刀に応戦していくが、やがて2人がかりの刀が力づく東洋の首に押し当てられ、ギリギリ食い込んで押し斬られていく残酷な場面となり、それでも東洋必死でそれを脱して血まみれで刀を構え直すが、やがて息絶えていくという壮絶な演出となっている。 こうした最後まで生きようともがく吉田東洋演出しリアルな死闘を描く五社監督は、「痛みの伝わる殺陣」を目指し斬る側や斬られる側の苦悶観客にも伝わるような迫力のあるアクション信条であった受けたの上からゴリゴリ押し切ってしまう殺陣は、この作品ではじめこころみた。「人斬り」は衝撃的な迫力殺陣盛りこむだけでなく、テロリズム狂気殺陣の上具現したつもりだ。殺陣は型である。これまで正義であるとか、憎悪怨念であるとか、対決であるとかが、立ち回りの上表されてきた。しかし「人斬り」は型を無視した。(中略実践的な壮絶さを狙った。人と人とが殺し合うときに、流儀とか剣法とかなんてないと思いますよ。野獣のように、それこそ相手のど笛にくらいついても、勝つという動物的本能だけだと思う。そのすさまじさ出したかった。 — 五社英雄週刊サンケイ記事

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吉田東洋暗殺

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/22 15:11 UTC 版)

土佐勤王党」の記事における「吉田東洋暗殺」の解説

勤王党にとって事態好転しない中、彼らにとって救いであったのは、吉田東洋政治基盤決し盤石ではなかったことである。もともと政治基盤弱かった東洋であるが、彼の後ろ盾となっていた前藩主山内容堂安政の大獄により失脚しており、さらに彼の藩政改革路線に対しては、これを不満とする保守派が有力上士中に多数存在しているという有様であった勤王党は本来ならば保守派層と相反する立場にあったが、東洋排除という共通目的掲げることで保守派層との協力関係樹立させた。文久2年4月8日1862年5月6日)、武市指示受けた那須信吾勤王党員によって東洋暗殺される。この事件のあと、東洋派は失脚余儀なくされ、代わって保守派中心政権誕生した藩庁ももはや勤王党圧力無視することができず、藩内外に高まる尊攘運動の高まり押される形で、勤王党意見受け入れざるを得なくなった

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吉田東洋暗殺

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 13:56 UTC 版)

武市瑞山」の記事における「吉田東洋暗殺」の解説

半平太は吉田東洋専横を憎む守旧派連枝山内大学山内兵之助・山内民部家老柴田備後五藤内蔵助らと気脈を通じるうになる半平太は穏当な手段での東洋排斥を彼ら連枝家老説くが、山内民部の「一人東洋さえ無ければ、他の輩は一事打ち潰すこともできよう」との言葉暗殺示唆受け取り半平太はついに東洋暗殺決断した。これには来る4月12日藩主山内豊範参勤交代のため出立することが決まり東洋佐幕派囲まれ藩主・豊範が江戸へ行ってしまえば久坂らとの三藩藩主勤王上洛密約水泡に帰すとの情勢切迫もあった。 4月8日夜、豊範に「本能寺凶変」の進講をして帰宅途上にあった吉田東洋を、半平太の指令受けた土佐勤王党那須信吾大石団蔵安岡嘉助襲撃し殺害し、その首を郊外の雁切獄門にかけ斬姦状を掲げた上で刺客達逃亡脱藩した東洋派の藩庁激怒し容疑者半平太以下、土佐勤王党一網打尽を図るが、土佐勤王党はこれに反発して討ち死に辞さぬ構え示し一触即発事態になった。この事態打開すべく半平太は山内民部書簡送り、これを受けた山内民部土佐勤王党自重促すとともに土佐勤王党庇護していた山内大学山内下総酒井勝作)と謀って政権掌握し半平率い土佐勤王党は彼らを通して実質的に藩政主導権握った12日東洋派は藩庁から一掃され暗殺され東洋吉田家知行召し上げとなっている。 これより前の文久2年1862年3月薩摩藩国父島津久光入洛したが、攘夷派期待異なり久光真意公武合体にあり、4月23日には寺田屋騒動起きて有馬新七薩摩藩攘夷派粛清され、彼らと行動伴にしていた吉村虎太郎土佐脱藩浪士送還させられた。過激攘夷派弾圧して暴発防いだ久光朝廷押し立てて将軍上洛五大老設置そして一橋慶喜将軍後見職松平春嶽大老就任による幕政改革要求する4月27日には長州藩世子毛利定広入洛して国事周旋勅命受けたこの後長州藩では攘夷派優勢になり、7月開国派長井雅楽罷免され破約攘夷藩論となる。 半平太は長州同様の勅命土佐にも下させるべく同志を京に派遣して朝廷働きかけ、これを受けた朝廷薩長両藩に続き土佐藩入洛させるべく山内家姻戚関係にある三条実美を介して入洛催促書簡送った。しかし、守旧派多数占め藩庁婉曲にこれを拒否する返書送った。吉田東洋暗殺のために延期になっていた山内豊範参勤交代出立6月28日となり、人数通常600人程を2,000人に増員し大部になった伝えられ半平太をはじめ島村衛吉平井収二郎土佐勤王党同志数十人も供奉した。参勤交代一行播磨国姫路麻疹集団感染発生して、豊範も罹患したため大坂での約一ヵ月逗留余儀なくされた。この大坂逗留中の8月2日に吉田東洋暗殺の下手人探索をしていた元下横目井上佐市郎岡田以蔵土佐勤王党殺害されている。

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