吉田東洋暗殺
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初日の大映スタッフたちを虜にした五社監督の演出の本領が見られるのは、物語の導入部の吉田東洋の暗殺シーンであるが、この凄惨な殺しの現場を目にした以蔵が「人斬り」の本能に目覚める最も重要な場面の一つとなっている。 土佐藩執政・吉田東洋に扮するのは辰巳柳太郎で、従者と共に土砂降りの夜道を歩いているところを突然と現れた刺客(土佐勤皇党の3人)に襲われるという長丁場の死闘は、先ず不意打ちにあった従者が血しぶきをあげて斬り殺されるところから始まる。 暗闇の中、3人の刺客に取り囲まれた吉田東洋は、絶叫してかかって来る彼らの刀を払いのけ、水溜りの泥まみれにのたうち回り体ごと斬りかかる3人の刀に応戦していくが、やがて2人がかりの刀が力づくで東洋の首に押し当てられ、ギリギリと食い込んで押し斬られていく残酷な場面となり、それでも東洋は必死でそれを脱して、血まみれで刀を構え直すが、やがて息絶えていくという壮絶な演出となっている。 こうした最後まで生きようともがく吉田東洋を演出し、リアルな死闘を描く五社監督は、「痛みの伝わる殺陣」を目指し、斬る側や斬られる側の苦悶が観客にも伝わるような迫力のあるアクションが信条であった。 受けた刀の上からゴリゴリと押し切ってしまう殺陣は、この作品ではじめてこころみた。「人斬り」は衝撃的な迫力を殺陣に盛りこむだけでなく、テロリズムの狂気を殺陣の上に具現したつもりだ。殺陣は型である。これまで正義であるとか、憎悪、怨念であるとか、対決であるとかが、立ち回りの上に表されてきた。しかし「人斬り」は型を無視した。(中略)実践的な壮絶さを狙った。人と人とが殺し合うときに、流儀とか剣法とかなんてないと思いますよ。野獣のように、それこそ相手ののど笛にくらいついても、勝つという動物的本能だけだと思う。そのすさまじさを出したかった。 — 五社英雄「週刊サンケイ記事」
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吉田東洋暗殺
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勤王党にとって事態が好転しない中、彼らにとって救いであったのは、吉田東洋の政治基盤も決して盤石ではなかったことである。もともと政治基盤の弱かった東洋であるが、彼の後ろ盾となっていた前藩主山内容堂は安政の大獄により失脚しており、さらに彼の藩政改革路線に対しては、これを不満とする保守派が有力上士の中に多数存在しているという有様であった。勤王党は本来ならば保守派層と相反する立場にあったが、東洋の排除という共通目的を掲げることで保守派層との協力関係を樹立させた。文久2年4月8日(1862年5月6日)、武市の指示を受けた那須信吾ら勤王党員によって東洋は暗殺される。この事件のあと、東洋派は失脚を余儀なくされ、代わって保守派中心の政権が誕生した。藩庁ももはや勤王党の圧力を無視することができず、藩内外に高まる尊攘運動の高まりに押される形で、勤王党の意見を受け入れざるを得なくなった。
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吉田東洋暗殺
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半平太は吉田東洋の専横を憎む守旧派で連枝の山内大学・山内兵之助・山内民部、家老の柴田備後・五藤内蔵助らと気脈を通じるようになる。半平太は穏当な手段での東洋排斥を彼ら連枝家老に説くが、山内民部の「一人東洋さえ無ければ、他の輩は一事に打ち潰すこともできよう」との言葉を暗殺の示唆と受け取り、半平太はついに東洋暗殺を決断した。これには来る4月12日に藩主・山内豊範が参勤交代のため出立することが決まり、東洋ら佐幕派に囲まれた藩主・豊範が江戸へ行ってしまえば、久坂らとの三藩藩主勤王上洛の密約は水泡に帰すとの情勢の切迫もあった。 4月8日夜、豊範に「本能寺凶変」の進講をして帰宅途上にあった吉田東洋を、半平太の指令を受けた土佐勤王党の那須信吾・大石団蔵・安岡嘉助が襲撃して殺害し、その首を郊外の雁切橋に獄門にかけ斬姦状を掲げた上で、刺客達は逃亡脱藩した。東洋派の藩庁は激怒し、容疑者の半平太以下、土佐勤王党の一網打尽を図るが、土佐勤王党はこれに反発して討ち死にも辞さぬ構えを示し、一触即発の事態になった。この事態を打開すべく半平太は山内民部に書簡を送り、これを受けた山内民部が土佐勤王党に自重を促すとともに、土佐勤王党を庇護していた山内大学・山内下総(酒井勝作)と謀って政権を掌握し、半平太率いる土佐勤王党は彼らを通して実質的に藩政の主導権を握った。12日に東洋派は藩庁から一掃され、暗殺された東洋の吉田家は知行召し上げとなっている。 これより前の文久2年(1862年)3月に薩摩藩国父・島津久光が入洛したが、攘夷派の期待と異なり久光の真意は公武合体にあり、4月23日には寺田屋騒動が起きて有馬新七ら薩摩藩攘夷派は粛清され、彼らと行動を伴にしていた吉村虎太郎ら土佐脱藩浪士も送還させられた。過激攘夷派を弾圧して暴発を防いだ久光は朝廷を押し立てて将軍上洛、五大老の設置そして一橋慶喜の将軍後見職、松平春嶽の大老就任による幕政改革を要求する。4月27日には長州藩世子・毛利定広が入洛して国事周旋の勅命を受けた。この後、長州藩では攘夷派が優勢になり、7月に開国派の長井雅楽が罷免されて破約攘夷が藩論となる。 半平太は長州と同様の勅命を土佐にも下させるべく同志を京に派遣して朝廷に働きかけ、これを受けた朝廷は薩長両藩に続き土佐藩を入洛させるべく山内家と姻戚関係にある三条実美を介して入洛催促の書簡を送った。しかし、守旧派が多数を占める藩庁は婉曲にこれを拒否する返書を送った。吉田東洋暗殺のために延期になっていた山内豊範の参勤交代出立は6月28日となり、人数は通常600人程を2,000人に増員した大部隊になったと伝えられ、半平太をはじめ島村衛吉・平井収二郎ら土佐勤王党の同志数十人も供奉した。参勤交代の一行は播磨国姫路で麻疹の集団感染が発生して、豊範も罹患したため大坂での約一ヵ月の逗留を余儀なくされた。この大坂逗留中の8月2日に吉田東洋暗殺の下手人探索をしていた元下横目の井上佐市郎が岡田以蔵ら土佐勤王党に殺害されている。
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