青蓮院宮令旨事件とは? わかりやすく解説

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青蓮院宮令旨事件

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/08 09:30 UTC 版)

間崎哲馬」の記事における「青蓮院宮令旨事件」の解説

間崎哲馬は、土佐藩藩政改革を行うため、土佐勤王党仲介して青蓮院宮尊融親王(中川宮朝彦親王)の令旨奉拝しようと活動した12月佐幕派青蓮院宮令旨発したが、この越権行為土佐藩主の権威失墜させるものとして文久3年1月25日(1863年3月14日)に上洛した山内容堂より「不遜極み」であると逆鱗にふれ、文久3年6月8日(1863年7月23日)、間崎平井収二郎弘瀬健太と共に責任をとって切腹し土佐勤王党の獄犠牲者第1号となる。享年30辞世の句:守る人の有るか無きか白露のおき別れにし撫子の花。 — 間崎滄浪 その2ヶ月後、間崎門下にあたる中岡慎太郎乾退助訪問し、のちに薩土討幕の密約を結ぶ端緒となる。 明治24年1891年)、従四位追贈された。

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青蓮院宮令旨事件

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/31 01:42 UTC 版)

平井政実」の記事における「青蓮院宮令旨事件」の解説

この「青蓮院宮令旨事件」を契機として、山内容堂は、吉田東洋暗殺犯の徹底捜索命じ土佐勤王党協力的であった国家老深尾鼎大監察小南五郎右衛門をはじめ、同じく大監察であった善之丞も罷免された。 京都八月十八日の政変が起こると、土佐でも土佐勤王党の獄始まり勤皇派弾圧され以後は再び小野閑居した。 慶応元年5月11日(1865年6月4日)死去享年63歳明治31年1898年)贈従四位法名温良寛裕日仁居士。墓は高知県高知市塩屋崎、佐竹花屋の上平坦地の東の上側・加用墓地の上西側にあり。

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