青蓮院宮令旨事件
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間崎哲馬は、土佐藩の藩政改革を行うため、土佐勤王党が仲介して青蓮院宮尊融親王(中川宮朝彦親王)の令旨を奉拝しようと活動した。12月、佐幕派の青蓮院宮は令旨を発したが、この越権行為が土佐藩主の権威を失墜させるものとして文久3年1月25日(1863年3月14日)に上洛した山内容堂より「不遜の極み」であると逆鱗にふれ、文久3年6月8日(1863年7月23日)、間崎は平井収二郎、弘瀬健太と共に責任をとって切腹し、土佐勤王党の獄の犠牲者第1号となる。享年30。 辞世の句:守る人の有るか無きかは白露のおき別れにし撫子の花。 — 間崎滄浪 その2ヶ月後、間崎の門下にあたる中岡慎太郎が乾退助を訪問し、のちに薩土討幕の密約を結ぶ端緒となる。 明治24年(1891年)、従四位を追贈された。
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青蓮院宮令旨事件
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この「青蓮院宮令旨事件」を契機として、山内容堂は、吉田東洋暗殺犯の徹底捜索を命じ、土佐勤王党に協力的であった国家老・深尾鼎、大監察・小南五郎右衛門をはじめ、同じく大監察であった善之丞も罷免された。 京都で八月十八日の政変が起こると、土佐でも土佐勤王党の獄が始まり、勤皇派は弾圧され、以後は再び小野に閑居した。 慶応元年5月11日(1865年6月4日)死去。享年63歳。明治31年(1898年)贈従四位。 法名は温良院寛裕日仁居士。墓は高知県高知市塩屋崎、佐竹花屋の上の平坦地の東の上側・加用墓地の上西側にあり。
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