土佐勤王党の獄
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文久3年(1863年)1月25日、入京した山内容堂は、土佐勤王党の平井収二郎、間崎哲馬、弘瀬健太らが青蓮院宮から令旨を賜り、これを楯にして国元にいる先々代藩主・山内豊資(藩主・山内豊範の実父)に働きかけて藩政改革を断行しようとしている事を知り「僭越の沙汰である」と激怒。両名を罵倒して罷免した上で土佐での蟄居を命じた。さらに3月、容堂が土佐へ帰国すると、直ちに吉田東洋暗殺の下手人捜索を指示して、土佐勤王党に同情的な大監察・小南五郎右衛門、国老・深尾鼎を解任し、大監察・平井善之丞も辞職を余儀なくされた。その後、平井収二郎、間崎哲馬、弘瀬健太は入牢。6月7日に死罪が決定し、翌8日に三人は切腹。尊攘派の情勢が急激に悪化する中、9月21日、武市瑞山ら土佐勤王党幹部も逮捕命令が出され、瑞山は城下帯屋町の南会所(藩の政庁)に投獄された。取調べの際、上士である瑞山は結審に至るまで拷問される事はなかったが、武市瑞山の上士への昇格に便宜を図ったとして深尾成質へも罪科が及ぶ危険性が高まったが、結局乾退助が身代わりとなって罪を被り大監察(大目付)を辞し、さらに元治2年3月27日(1865年4月22日)、先の在職中「郷士の上士昇格の件に関し不念の儀」があったとして乾退助が謹慎を命ぜられた。この時期、成質が大坂の土佐稲荷神社に奉納した灯籠が現存する。
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土佐勤王党の獄
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/22 15:11 UTC 版)
文久3年(1863年)4月、吉田東洋を重用していた前藩主山内容堂が謹慎を解かれ帰国すると、早速藩庁人事の交替が始められた。6月、武市の参謀的存在であった平井収二郎・間崎哲馬・弘瀬健太の三名が切腹に処せられた。これは彼らが青蓮院宮に令旨を請い、勤王運動のための藩政改革を企てたことが容堂に露見し、罰せられたものである。文久3年前半期は京における尊攘運動が最高潮に達した時期であったが、八月十八日の政変によって長州藩ら尊攘派は京から追放され、代わって公武合体派が勢力を強めた。政変の直前、旧勤王党員である吉村虎太郎が大和において挙兵するが、政変による形勢の逆転をうけて壊滅した(天誅組の変)。 政変以後、容堂は勤王党への弾圧を強め、武市を筆頭に土佐に戻った主要な勤王党員は軒並み投獄された。武市は同年1月に上士格留守居組に昇進していたため拷問は受けなかったものの、劣悪な獄中環境で体調を崩し、他の勤王党員は過酷な拷問を受け続けた。 元治元年(1864年)4月に京都で無宿者の犯罪者に身を落とした岡田以蔵が幕吏に捕えられ、土佐に送還後、拷問に耐えかね、大阪での土佐藩下横目・井上佐一郎暗殺、京での佐幕派要人暗殺を自白した。しかしそれでも武市らは暗殺を否認したため、嘘も多い以蔵の自白以外には証拠らしい証拠が無いことにより、藩庁は武市の罪状を明確に立証することはできなかった。結局、慶応元年(1865年)閏5月11日、具体的な罪状は立証されないまま「君主に対する不敬行為」という罪目で武市は切腹を命ぜられ、同日南会所大広庭にて切腹。以蔵ら自白組四名は獄内での斬首となった。文久3年(1863年)から慶応元年(1865年)に至る一連の弾圧により、勤王党はその指導者の大半を失ったことで、事実上壊滅することとなった。
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