土佐勤王党結成とは? わかりやすく解説

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土佐勤王党結成

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 13:56 UTC 版)

武市瑞山」の記事における「土佐勤王党結成」の解説

文久元年1861年4月半平太は江戸で諸藩攘夷派交際持っていた大石弥太郎招請に応じて剣術修行名目出立7月江戸到着し長州藩桂小五郎久坂玄瑞高杉晋作薩摩藩樺山三円水戸藩岩間金平尊王攘夷派交流する半平太は特に久坂心服し久坂の師である吉田松陰の「草莽崛起」の思想共鳴した土佐藩尊王攘夷運動立ち遅れ痛感した半平太は久坂樺山三藩藩論攘夷一決し藩主入京せしめ、朝廷押し立てて幕府攘夷迫ろう提案し、この提案一同同意を得ることとなった8月半平太は築地土佐藩中屋敷少数同志密かに土佐勤王党結成し大石弥太郎起草により、隠居させられ老公山内容堂)の志を継ぎ、一藩勤王旨とする盟曰(盟約)を定めた9月帰国した半平太は同志募り坂本龍馬土佐における筆頭加盟者となり、間崎哲馬平井収二郎中岡慎太郎吉村虎太郎岡田以蔵最終的に192人が加盟した加盟者の大半下士郷士地下浪人下級武士庄屋で、上士2人しか加わっていない。 この頃土佐藩は容堂の信任厚い参政吉田東洋配下の新おこぜ組が政を司り意欲的な藩政改革進めていた。故に藩論東洋唱える開国公武合体であり、また初代山内一豊徳川家康格別抜擢によって土佐一国拝領した歴史的経緯から土佐藩では幕府尊崇する気風強かった10月23日半平太は藩論刷新すべく大監察福岡藤次および大崎進言する書生論であると退けられ半平太はなおも東洋宅を訪問して時勢論じ勤王攘夷説くが、東洋は「そこもと浪士の輩に翻弄されているのであろう婦女子如き京師公卿相手にして何事できようか。山内家幕府との関係島津毛利とは違う、両藩と事を同じにしようとは不注意極みである」と一蹴した半平太は藩論転換すべく各方面運動するとともに長州久坂玄瑞大石弥太郎坂本龍馬らを使者送り薩長土勤王密約実現のための連絡緊密にした。長州でも長井雅楽開国論(「航海遠略策」)が藩論となっており、久坂は自藩の萎微を痛嘆する返書を寄こす情勢だった。だが、翌文久2年1862年2月久坂元へ送った吉村虎太郎から薩摩藩国父島津久光精兵2,000をもって率兵上京するとの報がもたらされた。久坂攘夷派はこれを攘夷のための挙兵であると解釈しており、吉村半平太に脱藩し薩摩勤王義挙参加すべしと説くが、半平太は飽くまでも一藩勤王実現目指すべきだと自重促した吉村はこれに納得せず、宮地とともに脱藩し長州向かい次いで沢村惣之丞坂本龍馬脱藩してしまった。龍馬脱藩について半平太は後に「龍馬土佐の国にはあだたぬ(収まりきらぬ)奴。広い処へ追い放してやった」と語っている。

※この「土佐勤王党結成」の解説は、「武市瑞山」の解説の一部です。
「土佐勤王党結成」を含む「武市瑞山」の記事については、「武市瑞山」の概要を参照ください。

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