航海遠略策
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航海遠略策(こうかいえんりゃくさく)は、江戸時代末期(幕末)に浮上した政治・外交思想。後述するように長州藩の長井雅楽(時庸)が文久元年(1861年)頃に提唱したものが特に有名である。他に佐久間象山、吉田松陰や平野国臣ら先駆的な思想家も同様な主張をしていたが、具体的な建白書の形にし、政治運動にまで盛り上げたのは長井によるものである。異人斬りに象徴される単純な外国人排斥である小攘夷や、幕府が諸外国と締結した不平等条約を破棄させる破約攘夷ではなく、むしろ積極的に広く世界に通商航海して国力を養成し、その上で諸外国と対抗していこうとする「大攘夷」思想に通じる考えで、その精神自体は後の明治維新の富国強兵・殖産興業などにも影響を与えたとも言えるが、この時点においては実行手段の具体性に欠け、また急速な尊王攘夷運動の高まりもあって、大きな政治運動となる前に挫折した。
- ^ 「当今に至り破約攘夷と申す儀事理を深察仕り候者は決して落着仕らざる事にて唯当時慷慨と唱へ決起の輩のみ愉快に存じ奉る可く候其子細は只今破約と相成り候へば黠夷共決して承伏は仕る間敷戦争に相成り申す可く候」
- ^ 「扨又鎖国と申す義は三百年来の御掟にて島原一乱後別して厳重仰せ付けられ候御事にて其以前は夷人共内地へ滞留差免され且つ天朝御隆盛の時は京師へ鴻臚館を建て置かれ候ことも之れある由に候へば全く皇国の御旧法と申すにても之なく」
- ^ 「漸次皇国の御武威を以て五大洲を横行仕り候をはゞ彼れ自ら皇国の恐る可きを知り求めずして貢を皇国へ捧げ来らんことを年を期して待つべく候」
- ^ 「急速航海御開き武威海外に振ひ征夷の御職相立ち候様にと厳勅関東へ仰せ出され候はゞ関東に於て決して御猶予は之ある間敷即時勅命の趣を以て列藩へ台命を下され御奉行の御手段之ある可く左候時は国是遠略天朝に出て幕府奉じて之を行ひ君臣の位次正しく忽ち海内一和仕る可く候」(以上、『防長回天史』第三編上第七章長井雅楽の周旋)
- ^ 安政2年(1855年)9月「段々の御処置ぶりつぶさに聞こし召され、殊の外叡感あらせられ、まずもって御安心あそばされ候。容易ならざる事情、かくまでに居り合い候段、千万御苦労の御儀と思し召され候」(青山前掲書30ページ)。
- ^ ただし長井と松陰は犬猿の仲であった(長井雅楽#長井雅楽と吉田松陰参照)。
- ^ 青山前掲書88ページ。
- ^ 中山忠能が長州藩世子毛利定広への勅答を家老浦靱負へ伝えた際に、長井の建白書中に「朝廷御処置聊謗詞に似寄候儀も有之」と指摘した件(『防長回天史』第三編上第十五章長井雅楽の蹉跌)。
- 1 航海遠略策とは
- 2 航海遠略策の概要
- 3 参考文献
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