長井雅楽の周旋と失敗
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長州藩直目付であった長井雅楽は文久元年(1861年)3月(以下、日付はすべて天保暦)、藩主毛利慶親に対し、藩の政治活動方針として航海遠略策を建白した。長州藩要路は討議の結果、長井の建白を藩論として採用し、慶親の裁可の下、この方針で朝廷・幕府に対し周旋に当たるよう、長井に命じた。 同年5月12日に上京した長井は、議奏の権大納言正親町三条実愛に面会し、航海遠略策を建言。これに賛同した正親町三条は長井に書面での提出を求めた。建白書に目を通した孝明天皇もこの論に満足し、朝廷の了解を得た長井は、幕府要人への入説を命ぜられ6月には江戸へ下った。しかし、すでにこの頃江戸の長州藩邸では長井に反撥する空気が横溢していた。桂小五郎・久坂玄瑞ら吉田松陰系の尊王攘夷派藩士たちは、破約攘夷を主張しており、長井の策は勅許なしでの条約締結による開国を是認するものであり、天皇をおろそかにする政策だと主張した。そしてもう一つ、幕府がこれまでしてきたことを黙認する航海遠略策は、吉田松陰を処刑された松下村塾生にとって受け入れがたいものだったと考えられる。桂・久坂は周布政之助を説得し、反長井派に転じさせることに成功する。 一方長井は7月2日老中久世広周を説得、さらに8月3日には同じく老中安藤信正にも面会した。外様大名の陪臣である長井が朝廷や幕府要人の間を周旋するのは異例中の異例であったが、公武合体が進まず窮地に陥っていた幕府にとっては渡りに船の政論であったため、二人の老中は大いに賛同し、長井に引きつづき周旋を求めた。そこで長井は本格的な推進のため、萩に戻り藩主毛利慶親の出府を促した。この動きに対し、反長井派の周布・久坂は藩主出府を阻止しようとするが、無断で任地を離れた罪で逆に逼塞処分となる。しかし11月13日、江戸に到着した慶親は藩内の強硬な異論を鑑み、久世・安藤の要請にもかかわらず、航海遠略策に消極的な姿勢となってしまう。その一方で12月8日には、長井が幕府へ正式に航海遠略策を建白。翌文久2年正月3日、長井は中老に昇進する。ところが航海遠略策の推進役の一人であった安藤信正は坂下門外の変で失脚。孤軍奮闘の長井は、3月10日江戸を立ち京に上った。 しかし、すでに京都の情勢は前年とは様変わりしていた。薩摩藩主の父島津久光が兵を引き連れて上京し、攘夷運動を促進するという情報(実際には久光に攘夷の意志はなく、公武合体策と幕政改革の推進が目的であった)から、尊攘派の動きが朝廷においても活発化していたためである。3月18日、長井は正式に朝廷へ航海遠略策を建白するが、工作は失敗に終わった。さらに4月11日には久坂が藩重役に対し、12箇条からなる長井の弾劾書を提出している。藩論の分裂を恐れた毛利慶親は、長井に江戸帰府を命令。4月13日に島津久光が入京するのと入れ違うように、翌14日長井は京を退去した。 さらに久坂らの朝廷工作は続き、前年に長井が正親町三条実愛に提出した書面に現朝廷を誹謗した文言があると攻撃。これを受けて朝廷は5月5日、不快感を表す(謗詞一件)。長州藩は朝廷に謝罪するとともに6月5日長井の中老職を免じ、帰国させる。7月入京した毛利慶親は重臣と相談の末、長州の藩論を航海遠略策から破約攘夷へ転換することを決定。ここに至って長井の政治工作は完全に破綻した。幕府側で航海遠略策を支援していた久世広周も6月2日に罷免され、朝廷側でこれを主導した正親町三条実愛も翌年に権大納言・議奏を辞職に追い込まれている。 11月15日、長井は切腹を命じられ、翌文久3年(1863年)2月6日自害した。以後、長州藩は尊王攘夷の最過激派として、八月十八日の政変まで京都政局を主導することになる。しかしその後薩英戦争や四国艦隊下関砲撃事件などを通じて攘夷の不可能性が知れ渡り、開国が不可避となるに従い、航海遠略策の思想は歴史的役割を終えた。
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