歴史的役割
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イスラム3世ギレイは、先君に仕えていたトガイ・ベイを敵視していた。自身の権力強化を阻む最も影響力のある敵対者の1人であると考えていたハンは、コサックへの支援を約束したあと、自分はひとまず出陣せずにトガイ・ベイに先陣を命じた。これにより、ハンはトガイ・ベイを遠ざけることができたのである。さらにもし遠征が失敗に終わればその責任をこの言うことを聞かない家臣に押し付けることができたし、成功すればコサックからの信頼を得ることができると計算した。イスラム3世ギレイは、コサックの力を利用してクリミア・ハン国をすでに衰えが目立ってきたオスマン帝国への隷属から解き放つことを計画していたのである。 いずれにせよ、クリミア・タタールの、とりわけトガイ・ベイ率いた軍はフメリニツキーの勝利に大きく貢献した。クリミアの騎馬隊によって、ポーランド騎兵の優位は崩された。コサック歩兵とクリミア騎兵の協同は、共和国軍に対する作戦戦術上の優位を同盟軍にもたらした。緒戦で登録コサックが共和国軍から叛乱軍側に寝返ったのち、共和国軍はコサック歩兵と同等の歩兵戦力を失っていた。そのため、自衛のために騎兵を下馬させなければならなかった。 コサック・タタール同盟軍の中でトガイ・ベイの率いた騎馬隊は、進軍の際には先陣の、戦闘の際には前衛(ウクライナ語版)の役割を担った。また、戦術的斥候任務も遂行した。それ以外に、フメリニツキーの求めに応じて、主君イスラム3世ギレイの合意の下、トガイ・ベイは1648年の夏から1649年の春にかけて1万5000の兵を引き連れてドニプロー川付近のスィーニ・ヴォーディ(ウクライナ語版)の宿営に駐屯した。この駐留軍は、ウクライナ・コサックにとっての予備部隊の機能を果たした。 一般に、トガイ・ベイとフメリニツキーの関係は友好的なものであったとされている。これについてはとりわけ、フメリニツキーが1649年のペレヤースラウでのポーランド代表者らと会談した際に本心からの興奮とともに語った、次の言葉が知られている。 ……我が兄弟、我が魂、世界で唯一羽の猛禽、我が望みのすべてを行う用意のある者。我らコサックと彼との友情は永遠のものだ。世界とてこの友情を引き裂くことはできない。
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歴史的役割
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/12 06:18 UTC 版)
当初、治安維持法制定の背景には、ロシア革命後に国際的に高まりつつあった共産主義活動(コミンテルン、レーニンの敗戦革命論も参照)を牽制する政府の意図があった。また似たような法律は、当時のドイツ、フランス、アメリカ合衆国、イギリスなどに公然と存在していた。 1930年代前半に左翼運動が潰滅したため標的を失ったかにみえたが、以降は1935年(昭和10年)の大本教への適用(大本事件)など新宗教(政府の用語では「類似宗教」。似非宗教という意味)の取り締まりにも用いられた。天皇を頂点とする国家神道の存立を脅かすことが、国体の変革に当たるという解釈の下に取締りが進められた訳である。大本以外にもPL教団、創価教育学会、天理本道、ホーリネス系キリスト教団など弾圧を受けた団体は多い。創価学会は創立者で精神的支柱の一人でもある牧口常三郎を獄死させられ、キリスト教団はホーリネス系教団および安息日再臨教団ことセブンスデー・アドベンチストを併せて10名の獄死者およびこれに準ずる者を出している。 詳細は「邪教#大正・昭和初期」、「大本事件#事件の影響」、および「ホーリネス弾圧事件」を参照 「牧口常三郎#検挙・獄死」および「創価教育学会#沿革」も参照 三・一五事件の弁護人のリーダー格となった布施辰治は、大阪地方裁判所での弁護活動が「弁護士の体面を汚したもの」とされ、弁護士資格を剥奪された(当時は弁護士会ではなく、大審院の懲戒裁判所が剥奪の権限を持っていた)。さらに、1933年(昭和8年)9月13日、布施や上村進などの三・一五事件、四・一六事件の弁護士が逮捕され、前後して他の弁護士も逮捕された(日本労農弁護士団事件)。その結果、治安維持法被疑者への弁護は思想的に無縁とされた弁護人しか認められなくなり、1941年の法改正では、司法大臣があらかじめ指定した弁護士でないと弁護人に選任できないとされた(第29条)。 日本内地では純粋な治安維持法違反で死刑判決を受けた人物はいない。ゾルゲ事件で起訴されたリヒャルト・ゾルゲと尾崎秀実は死刑となったが、罪状は国防保安法違反と治安維持法違反の観念的競合とされ、治安維持法より犯情の重い国防保安法違反の罪により処断、その所定刑中死刑が選択された。そこには、死刑よりも『転向』させることで実際の運動から離脱させるほうが効果的に運動全体を弱体化できるという当局の判断があったともされている。 但し、治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟によれば、この法により逮捕され、特別高等警察の拷問・虐待により194人が死亡しており(小林多喜二も拷問により死亡している)、この死因とは別に病死により獄死した者が1,503人いた。また、この法により逮捕された者は数十万人、検事局に送検されただけの者も含め7万5,681人(荻野富士夫の調査では6万8,274人。内、起訴された者は6,550人)いたことを不破哲三が第77回国会の予算委員会において発言している ゾルゲ事件では、他にも多くの者が逮捕されたにもかかわらず死刑判決を受けたのはゾルゲと尾崎だけだった。戦後にゾルゲ事件を調査したチャールズ・ウィロビーは、それまで持っていた日本に対する認識からするとゾルゲ事件の多くの被告人に対する量刑があまりにも軽かったことに驚いている。朝鮮においては間島共産党事件などで治安維持法違反による刑死者を出したがこれも殺人や現住建造物放火等との併合罪によるものであった。その後、治安維持法を運用した特別高等警察をはじめとして、警察関係者は多くが公職追放されたが、司法省関係者の追放は25名に留まった。池田克や正木亮など、思想検事として治安維持法を駆使した人物も、ほどなく司法界に復帰した。池田は追放解除後、最高裁判事にまでなっている。 1952年(昭和27年)公布の破壊活動防止法は「団体のためにする行為」禁止規定などが治安維持法に酷似していると反対派に指摘され、治安維持法の復活という批判を受けた。その後も、治安立法への批判に対して治安維持法の復活という論法は頻繁に使われている(通信傍受法(盗聴法)、テロ等準備罪(共謀罪)新設法など)。 第二次世界大戦後は治安維持法については否定的な意見が主流とされる。一方、保守派の一部には治安維持法擁護論もある[要出典]。 1976年(昭和51年)1月27日、民社党の春日一幸が衆議院本会議で日本共産党委員長宮本顕治のリンチ殺人疑惑を取り上げた際、宮本の罪状の一つとして治安維持法違反をそのまま取り上げた。そこで、宮本の疑惑の真偽とは別に、春日は治安維持法を肯定しているのかと批判を受けた。その3日後の1月30日に、春日とは別に塚本三郎によりこの事件が取り上げられ、宮本顕治釈放の根拠となった診断書の虚偽疑惑についても追及されている。 藤岡信勝は『諸君!』1996年4月号の「自由主義史観とはなにか」で「治安維持法などの治安立法は日本がソ連の破壊活動から自国を防衛する手段」であったと一定の評価を下し、日本共産党などから強い反発を受けた。中西輝政も『諸君!』『正論』などで、同様の主張を行っている(『諸君!』2007年9月号「国家情報論 21」、『正論』2006年9月号など)。福田和也は、戦後に廃止されてから1955年7月まで毛沢東式武装闘争を行った日本共産党や、それ以後も1955年以前の日本共産党の路線を分裂しながらも続けた新左翼・極左暴力集団による暴力革命・武装闘争によって、民間人や警察を多数死傷させるような過激な革命を目指すテロなどが頻繁だった昭和時代までは必要性があったとしている。 渡部昇一は「治安維持法は今日的な視点で考えれば法律が特定の思想を取り締まるなど、民衆弾圧のために制定された『天下の悪法』とされているがそれは大きな誤解であり、当時の状況を鑑みなければその本質は見えてこない」としている。「制定された当時の状況はロシア帝国がソ連になり、ロシア革命が成功したことによって日本に共産主義の流入という思想的脅威が迫っていた。この脅威は大正11年(1922年)のコミンテルン世界会議の決議に『君主制廃止』が盛り込まれたことで一層高まった。ロシア革命でロシア共産党が実行した君主制廃止というものは王族を一人残らず惨殺するという残忍なもので日本からしてみれば皇室廃絶と皇族の虐殺を意味しており、皇室を愛してやまなかった当時の日本人が底知れぬ恐怖を抱ていた。事実、マルクス主義者レーニンの指導の下、ロシア革命が起きてソ連になり、権力を掌握しロシア共産党はロマノフ王朝の一族を全て処刑したほか、共産主義を安定的に維持して統治するべく共産主義に賛同していないとみなした人民700万人近くを数年間にわたって殺戮していた。こうした暴力的な『テロ思想』の流入を防ぐために制定された。それにもかかわらず、『天下の悪法』という汚名が着せられているのは、その後、戦局の悪化緊迫とともに取り締まりがエスカレートして多くの人が冤罪で捕まり、警察の取り調べで亡くなった人もいたが、だからといって共産主義思想を防御するという治安維持法本来の目的、共産主義革命は残虐行為を伴うものだという二点を考えれば一概に悪法と決めつけるのは間違いだ」としている。 アメリカ合衆国では1954年8月24日に共産主義者取締法というアメリカ共産党の非合法化と共産党の支援・共産主義者などを罰する法律が制定された。現行でも有効の法律であるが、1991年のソビエト連邦の崩壊による冷戦終結以降にもアメリカ共産党は小規模ながら存続している。 1968年(昭和43年)には、治安維持法犠牲者への国家賠償請求を訴える治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟が結成されている。
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