共産主義活動
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こうした環境にあって、ペローは共産主義に惹かれるようになった。1954年にアルジェリア戦争が勃発し、アルジェリア戦争における拷問などの残虐行為の実態が明らかになると、この不当な戦争に反対する主力野党が共産党であると考え、1955年に共産党に入党した。歴史修正主義と反ユダヤ主義に反駁する著書『記憶の暗殺者たち』で知られる歴史学者のピエール・ヴィダル=ナケ(1930-2006) は当時、カーン大学教授で、1957年に当時25歳のアルジェリア共産党員、独立運動家で数学者のモーリス・オーダンがフランス軍に拷問され、失踪した事件について真相究明を求める委員会を結成すると、ペローもこの委員会で活動した。だが、共産主義については、1956年、フルシチョフ報告(スターリン批判)およびハンガリー動乱(自由化を求める民衆の暴動がソ連軍により弾圧、数千人の市民が殺害され、25万人近くの人々が難民となって国外逃亡、指導者ナジ=イムレが処刑された事件)に深く失望し、1958年にカーンからパリに戻ったときには党員証を更新しなかった。一方で、共産主義活動はこれ以後も継続した。再びフランソワ・フュレ、ジャック・オズーフ、モナ・オズーフ、セルジュ・マレ(フランス語版)、『西洋哲学の知』を著したフランソワ・シャトレらと共に、共産党から除名されたジャン・ポプラン(フランス語版)が結成した運動「共産主義論壇」に参加した。「共産主義論壇」は1960年に独立社会党(フランス語版)(PSA)、社会主義左翼連合(フランス語版)(UGS) と共に統一社会党を結党した。ペローはこうした共産主義への期待について、「同世代の若者たちと同じ幻想を私も抱いていたのだ」と述懐している。 一方で、こうした活動を通じて、労働者階級に関する共産党のイデオロギーを問い直すことになった。1962年、ペローはエルネスト・ラブルースの助手に就任した。フランス社会史研究所 (IFHS) では『フランス労働者運動事典』の監修で知られるジャン・メトロンを中心とするグループが「科学的な」労働史、すなわち、労働者を資本主義体制の犠牲者としてのみならず、労働史の担い手として捉える研究を行っていた。1961年にはメトロンが創刊した『歴史の現状』が『社会運動』と改名され、フランス労働史研究の主要学術誌となった。研究対象も女性史を含む社会史全般、その後ジェンダー史にまで拡大され、ペローは創刊時から1980年代中頃まで編集委員を務めることになった。彼らの研究活動は英国の共産党歴史家グループ (1946年結成) が刊行した学術誌『過去と現在』(1952年創刊)、特に中心的役割を担ったエドワード・P・トムスンの『イングランド労働者階級の形成』(1963年出版) の影響を強く受けている。これは、経済構造、社会構造、政治・労組組織に関する研究だけでなく、労働者の現状に焦点を当てた研究であり、アナール学派の計量歴史学を乗り越え、質的側面を重視しようとする試みである。したがって、ミシェル・ペローはエルネスト・ラブルースの思想と研究手法(計量歴史学)を受け継ぐと同時に、英国の労働史研究(定性的研究)から多くを学び、この成果が博士論文「ストライキ下の労働者」に結実したのである。
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