共産主義者との協調
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「ゲオルゲ・タタレスク」の記事における「共産主義者との協調」の解説
1944年末、ソヴィエト連邦の赤軍がルーマニアに侵攻し、連合国の一員となった頃に、タタレスクは国民自由党に復帰し、政党名簿にも名前が戻った。それにも関わらず、タタレスクは政党党首のディヌ・ブラティアヌやゲオルゲ・ブラティアヌに反抗し、1945年6月から7月にかけて自身の政党を形成した。ブラティアヌは国民自由党の指導者を招集し、鉄衛団時代の独裁政権への支持を根拠に、正式にタタレスクとその支持者を党から追放した。 ソヴィエト連邦による支配の中で、公に出ることが少なくなりながらも影響力を強めていたルーマニア共産党は、その支持を広げるために様々な勢力との連合の形成を模索していた。これを受けてタタレスクは、自身の勢力を社会自由主義を掲げる左派と宣言した一方で、ソヴィエト連邦と連合国によって維持される閉じられた関係を頼ることで、中道主義の人々を保護しようとした。国民自由党に所属していた社会主義者ニコラエ・ドゥミトル・コツェア(英語版)が、共産主義者との合同勢力を代表していた。この合同に対して、ルーマニア共産党員のアナ・パウケルは賛成していたが、ほかの多くの共産党員は激しく反対した。ルーマニア共産党員ルクレツィウ・パトラシュカヌ(英語版)は「ブルジョワジーの中でも区別をつける」ことに賛成の立場を示しており、国民自由党の主流派との合同には肯定的であった一方で、タタレスク派に対しては「連中は詐欺師やごろつきや贈賄者の集まり」と酷評していた。 1945年に、ソヴィエト連邦からの圧力によってペトル・グローザ(英語版)が首相となった際、タタレスクは、グローザ内閣の外務大臣と副首相に就任した。他にもタタレスク派のメンバーが、財務大臣(ドゥミトル・アリマニシュテアヌ、ミルチャ・ドゥマ、アレクサンドル・アレクサンドリニ)、国土交通大臣(イオン・ゲオルゲ・ヴィントゥ)、商工大臣(ペトレ・ベジャン(英語版))、宗教大臣(ラドゥ・ロシュクレツ)に就いた。また、彼は1946年11月の選挙(英語版)において、アメリカから提案された「公正選挙計画」に応じず、間接的ながらルーマニア共産党による不正選挙を手助けすることになった。タタレスクは、パリ講和会議にルーマニア共産党党首ゲオルゲ・ゲオルギウ=デジとパトラシュカヌと共に参加し、ルーマニア平和条約の下で大ルーマニア構想を放棄することに合意した。
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