政党党首
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/19 08:38 UTC 版)
「エフライン・リオス・モント」の記事における「政党党首」の解説
メヒア・ビクトレス政権は1984年に議会選挙を行い、1985年には新たな憲法を制定、リオス・モント政権下ですでにはじまっていた民政移管への動きを加速させた:405。1986年には選挙によって久しぶりに軍人でないビニシオ・セレソが大統領に就任した。こうした流れに乗ってリオス・モントは1989年に右派の新政党であるグアテマラ共和戦線(Frente Republicano Guatemalteco, FRG)を結成し、合法的に政治の世界へ戻った。 デイヴィッド・ストールによれば、グアテマラ国外の評価とは逆に、国内ではリオス・モントは人気を保ちつづけ、軍の迫害を受けた辺境地方でとくにその傾向が強かった。地方の住民はロメオ・ルカス・ガルシアの時代にくらべてリオス・モント時代は改善されたと考える傾向にあった。 1990年の大統領選挙 (1990–91 Guatemalan general election) に出馬しようとしたが、1982年のクーデター参加者であるという理由で最高選挙裁判所によって拒絶された。リオス・モントはそこで同じプロテスタントのホルヘ・セラノ・エリアスを支援し、彼が大統領に就任している。セラノ・エリアスはリオス・モント政権時代の政府諮問会議の副議長だった。 1995年の大統領選挙 (1995–96 Guatemalan general election) でも同様に立候補が認められなかった。FRGからはアルフォンソ・ポルティージョ(英語版)を候補として出したが、決選投票で敗れた。 1999年の大統領選挙 (1999 Guatemalan general election) でFRGはふたたびアルフォンソ・ポルティージョを候補に指名し、彼が当選して大統領に就任した。リオス・モント本人は同年グアテマラ議会の議長に就任した。 2003年の大統領選挙 (2003 Guatemalan general election) で憲法裁判所はリオス・モントが大統領に立候補することを許可した。反対派の申し立てによって最高裁判所がこの決定を認めなかったため、FRG勢力は武装して反対派を襲撃する「黒い木曜日」 (Jueves negro) 事件を起こした。結局立候補は認められたが、あまりにも強引なやり口が嫌われ、結果は3位に終わった。
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