政党内閣の崩壊
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/25 13:47 UTC 版)
昭和天皇はまだ若く、牧野も経験が少なかったため、西園寺のような政治力に乏しかった。一方の西園寺も老齢であり、興津の坐漁荘に滞在していたため、天皇らに十分な影響を与えることはできなかった。三月事件や満州事変の独断越境などの軍の独走に対して、西園寺は反対していたものの、牧野ら宮中、そして若槻内閣は穏当な対応を求め、結果的に処罰は行われなかった。これは軍部の増長を招き、元老や宮中、政党内閣の影響力は減退していくこととなった。 1931年(昭和6年)12月11日、若槻内閣は「協力内閣」運動に推されて辞職した。協力内閣は民政党と政友会が共同し、陸軍の意向も取り入れていこうというものであり、牧野や一木宮相も協力内閣の成立に好意的であった。しかし西園寺は政友会の犬養毅を推し、牧野らも異論を唱えなかったため政友会内閣である犬養内閣が成立した。犬養首相は満州国承認問題で軍部と対立し、1932年(昭和7年)の五・一五事件によって殺害された。陸軍は政党内閣に反対しており、平沼内閣の成立を望んでいた。西園寺は高橋是清臨時首相、荒木貞夫陸軍大臣、大角岑生海軍大臣といった内閣メンバー、倉富枢密院議長、近衛文麿貴族院副議長、清浦元首相、山本権兵衛元首相といった重臣、上原勇作元帥、東郷平八郎元帥などの陸海軍の大物と各方面の有力者の意見を聞き、さらに牧野内大臣・一木宮相・鈴木侍従長と会談した上で、海軍軍人の斎藤実を奏薦した。西園寺が各方面に配慮する姿勢を見せ、斎藤内閣は政友会と民政党、そして官僚から構成された挙国一致内閣であったが、平沼枢密院副議長といった右翼は西園寺に反感を持ち、その正当性に疑いの目を持つようになった。
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