政党内閣の誕生(明治時代)
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「政党の歴史」の記事における「政党内閣の誕生(明治時代)」の解説
第3次伊藤博文内閣は、軍備の拡張を図るために地租の増徴を行おうとした。しかし、これに自由党と進歩党が猛反対し、両党は合同して憲政党を樹立する。これにより伊藤博文内閣は退陣を余儀なくされ、日本初めての政党内閣である大隈重信内閣(第一次内閣で、隈板内閣とも言われた)が成立する。しかし、憲政党内部で対立が起こって、この政党内閣はわずか4ヶ月で退陣する。その後、憲政党(旧自由党)の支持を得て成立した第2次山縣有朋内閣によって、地租増徴案は成立して軍備拡張が行われると同時に、政党の影響力を抑えるために治安警察法や軍部大臣現役武官制などが公布された。 伊藤博文は、政党の必要性を悟り、自ら憲政党の旧自由党勢力と自派の官僚を結合し、1900年立憲政友会を組織し、初代総裁に就任する。伊藤が政党の党首となることに嫌悪感を抱く山縣は、明治天皇を動かし伊藤を枢密院議長にすることで政友会総裁を辞任することに成功する。政友会は西園寺公望を2代総裁に選出し、西園寺と山縣閥の陸軍大将桂太郎が交互に政権を担当する「桂園時代」が展開する。これは、薩長藩閥と政友会の大連立に近かった。
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