桂園時代とは? わかりやすく解説

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けいえん‐じだい〔ケイヱン‐〕【×桂園時代】

読み方:けいえんじだい

日露戦争後から大正2年(1913)の政変まで、桂太郎西園寺公望交互に政権担当した期間の呼称


桂園時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/28 05:23 UTC 版)

桂園時代(けいえんじだい)は、陸軍山県閥に属する桂太郎と、伊藤博文の後継者として立憲政友会第2代総裁に就いた西園寺公望が、政権を交互に担当した1901年明治34年)から1913年大正2年)の10年あまりをいう。「桂園」とは、両者の名前から「桂」と「園」の字をとったものである。


注釈

  1. ^ 1898年、第3次伊藤内閣文部大臣の職にあった西園寺は、リベラルな内容の「第2の教育勅語」をつくろうとしている。しかし、明治天皇からの内諾を得たものの実現しなかった[1]

出典



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桂園時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/25 13:47 UTC 版)

元老」の記事における「桂園時代」の解説

第1次桂内閣では、日露戦争遂行協力する見返りとして立憲政友会政権を譲るという密約があり、伊藤井上はこの密約知っていたが、山縣知らなかった密約知った山縣はこれに憤ったが、流れ変えようとはしなかった。形式的に元老了解取り政友会総裁西園寺公望後継首相に推薦した第1次西園寺内閣終焉にあたって西園寺推薦し天皇伊藤山縣松方井上同意確認してから大命下した日露戦争勝利権勢強め政友会影響力強大化したことにより、桂園時代の首相指名に関しては、元老形式的な存在となっていった。伊藤死後は「元老老衰した」として影響力拡大しようもくろみ1911年8月には「元勲優遇詔勅」を受けている。またマスメディアにおいても元老非立憲的であるなどと批判を受けるようになった

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桂園時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/30 02:04 UTC 版)

立憲政友会」の記事における「桂園時代」の解説

詳細は「桂園時代」を参照 桂内閣成立後伊藤総裁は、日露情勢打開欧米列強との外交交渉を行うために、外遊の旅に出る。伊藤総裁は筆頭元老という立場もあり、桂内閣支援する立場にあったが、留守を預かる原敬松田正久政友会幹部は、政府攻撃に回る。11月外債未達発生すると、政友会は、隈板内閣の崩壊以来犬猿の仲であった第二党憲政本党桂内閣攻撃提携する。この時点では党内では政府との交渉続けるべしとの意見多く党内二つ割れた連絡受けた伊藤総裁は外遊先より極秘電報打ち倒閣見合わせるよう訓示を出す。藩閥政権中枢および党幹部らがこれを回覧したのち、党幹部矛を収めることを決意藩閥側は政友会内の反対派切り崩し対立は一旦解消された。 1902年8月10日任期満了に伴う第7回衆議院議員総選挙が行われ、政友会引き続き第一党維持する選挙後議会では、地租増徴継続巡り政友会は再び憲政本党連携して対立伊藤総裁もこれを抑えられなくなる。同年末、衆議院解散されるが、桂内閣打開の術として、首相伊藤総裁を直接一本釣りにして、伊藤総裁は一部予算組み替え条件に、増徴継続容認する1903年3月1日第8回衆議院議員総選挙にて、政友会は再び第一党維持するが、ほどなく伊藤密約発覚する政友会伊藤地租継続密約容認するが、代償として党規約の改正総裁専制からの脱却要求伊藤はこれを受け入れる。更に7月12日元老野党総裁という伊藤立場扱いづらさ、伊藤党内をまとめ切れていないという現状解消すべく、藩閥首脳党幹部総意という形で、伊藤祭り上げの形で枢密院議長転出入れ替わり西園寺公望枢相政友会総裁迎え入れられる以降率い藩閥と、西園寺総裁戴く政友会が、妥協しつつ安定的に政権運営する時代が、約10年間にわたり継続する(桂園時代)。この間政友会は原の党務の下、衆議院第一党維持し続ける。 1904年2月日露戦争勃発政友会は、桂内閣戦争遂行協力したが、同年11月頃より、西園寺・原・松田幹部3人がひそかに接触戦後政友会政権を譲る方向で話をまとめる。1905年8月28日ポーツマス条約締結されると、これに反対する民衆暴動日比谷焼き討ち事件)が発生したが、政友会は原の引き締めによりこれに加わらなかった。1906年1月7日第1次西園寺内閣成立する。 桂園時代の政友会は、西園寺公望原敬松田正久三名による集団指導体制運営された。堂上公家生まれである西園寺山縣藩閥との交渉窓口や、自身組閣などで対外的に党を代表、原は西園寺に代わって党務統括松田党内声望があり、党内不満分子取りまとめ担っていた。 第1次西園寺内閣は、年来主張であった鉄道国有化などを実現する1908年5月15日第10回衆議院議員総選挙において、政友会過半数確保する。しかしこの直後赤旗事件発生内閣社会主義取り締まり不備山縣藩閥陣営から攻撃を受け、西園寺総辞職決意後継には奏請し、7月12日第2次桂内閣発足する第2次桂内閣では、当初野党立ち位置であったが、1906年憲政本党衆議院第2党)を中心に政友会党派合同機運持ち上がると(のちに立憲国民党結党される)、首相求めによって、政友会与党復帰する以降再度政権授受について、と原の間で交渉もたれたが、1910年大逆事件明るみ出たことにより、西園寺内閣攻撃した藩閥メンツ失い、原は政界引退言質を取る1910年8月30日第2次西園寺内閣成立する1912年5月15日第11回衆議院議員総選挙では、引き続き過半数維持する1912年11月二個師団増設問題懸案として持ち上がる。これが、政界復帰賭けた内大臣陰謀絡んでこじれ、西園寺内閣総辞職する変わって組織され第3次桂内閣は、が独自の政党結成企図して政友会との連携解消したため、桂園連携崩れる。野党転じた政友会立憲国民党他党とともに倒閣突っ走り第3次桂内閣短期間崩壊西園寺総裁辞任前後して松田急死したため、原が後継総裁となる(大正政変)。

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桂園時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/11 04:49 UTC 版)

桂太郎」の記事における「桂園時代」の解説

その後西園寺公望交互に組閣して政権担い、桂園時代(けいえんじだい)と呼ばれ明治41年1908年7月から同44年1911年8月第2次内閣大正元年1912年12月から同2年1913年2月第3次内閣組閣自身最後任期政権を担う。 この桂園時代は立憲政友会原敬との攻防と「情意投合」、盟友である西園寺との信頼関係のもと、凋落する元老世代からの自立図った時代でもある。第2次内閣時代には、韓国併合朝鮮の歴史大韓帝国日本統治時代の朝鮮)や大逆事件による社会主義者への弾圧関税自主権の回復による条約改正達成などの業績残した。 だが、それは山縣との間に微妙な亀裂を生み始める。2度内閣での実績を盾に山縣からの自立図り、さらに反政友会勢力結集させた「桂新党」までも視野入れただったが、山縣はそれを許さなかった。山縣は、明治天皇崩御死去)により急きょ海外視察から帰国したに「新帝輔翼」の重要性説き内大臣侍従長として宮中押し込めることで政治的引退図った。だが、二個師団増設問題巧みに利用し第2次西園寺内閣倒閣後、山縣自らが擁立せざるを得ない状況へと誘導する大正元年元帥府列する旨の内示受けた辞退している。

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桂園時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/21 16:11 UTC 版)

大正政変」の記事における「桂園時代」の解説

詳細は「桂園時代」を参照 大日本帝国政府は、明治維新主導した西南雄藩その中でも特に薩長)が主導権握り藩閥)、表向き衆議院代表される民意民党)とは距離を置く超然主義標榜したが、実際には、議会勢力協力無くしては予算案法案審議ひいては政権の運営ままならず藩閥歴代内閣議会対応に苦慮した元勲世代交代して首相職務めた後、1901年明治34年)に元勲次世代に当たる桂太郎が、山縣有朋元老から藩閥陣営主宰者引き継ぐ形で首相に就任すると、議会第一党の座を確保した立憲政友会西園寺公望総裁)との間で妥協成立し比較安定した政権運営が行われるようになる。この間首相の座に交互についた西園寺から一字ずつ取って、桂園時代と呼称される。 ただし、「藩閥政友会権力の座独占する」という対外的な安定性確保され一方で政権内部では、利益誘導などを巡って内紛恒常的に続いた。特に、藩閥側の頂点君臨する山縣元老政党政治本能的に嫌い、一方で政友会党務実質的に差配する原敬地方への利益誘導積極的に行って対立し西園寺両名(特に)の妥協的な態度には常に圧力加えられた。1911年8月第2次西園寺内閣成立するときには、原は政界引退言質取っており、一方山縣元老も、政友会友好的な態度をとってきたを嫌い、藩閥内でのさらに次世代にあたる寺内正毅朝鮮総督らの引き上げを行うなど、政治基盤切り崩しにかかる。 一方は、藩閥政友会以外の政治勢力を自ら立ち上げて本格的な議会制民主主義二大政党制)を日本導入すべく、英国視察企図する加藤高明駐英大使通じて段取りをつけ、7月6日シベリア鉄道経由で訪英の旅に出る。ところがロシア帝国首都サンクトペテルブルクへ到着したところで明治天皇発病重態知らせを受け、視察取りやめとなる。一行直ち引き返し7月29日天皇崩御知らせ帰路の旅上で受けた明治天皇崩御後山縣元老策動により、宮中職である内大臣侍従長推される。「宮中府中の別」の定めにより、この人事は、事実上政界引退意味していた。しかし、明治天皇大恩感じていた断りがたく、帰朝後8月13日内大臣侍従長就任する。しかし宮中職に精勤しつつも、政界復帰可能性保留し続けた後備役編入が迫る中、山縣大正天皇に対して元帥称号下賜推薦。これは終身軍人待遇を得るのと引き換えに、治安警察法規定により、政治結社への関与永久に禁じられることを意味した。そのため天皇の「御沙汰」を辞退、また天皇対し今後は重大人事に関して容易に御沙汰下さないよう奏上した。11月28日後備役編入される

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