第3次桂内閣の成立と護憲運動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/01 05:21 UTC 版)
「第30回帝国議会」の記事における「第3次桂内閣の成立と護憲運動」の解説
1901年以来、日本の政治は桂太郎と西園寺公望が交代で政権を担う桂園時代が続いてきた。1912年(大正元年)11月、第2次西園寺内閣下で二個師団増設問題が発生、上原勇作陸軍大臣が増師問題で帷幄上奏した。山縣に妥協の意図もあったことを知らない上原は単独辞表を提出し、西園寺内閣と陸軍との対立は不可避となった。軍部大臣現役武官制によって後継陸相が得られなかったため、12月5日、西園寺内閣は総辞職した。山縣有朋・松方正義・大山巌・井上馨らの元老は、元老会議を10回もひらいて後継首相を誰にするか協議し、そこではさまざまな名前が出てきたが結局桂を登板させるしかなかった。会議は桂太郎を後継首相に推薦し、内大臣から首相となる不自然さを糊塗するため大正天皇から内閣総理大臣出馬を認める勅語を得て、1912年12月21日、第3次桂内閣が成立した。 一方、1912年(明治45年)5月には第11回衆議院議員総選挙が行われ、その結果、381議席のうち第一党の立憲政友会が209、第二党の立憲国民党が95議席を獲得していた。世論は、二個師団増設要求を強引に進めようとしているのは、陸軍と山縣・桂の「長州閥」の連携した動きであるとみて硬化し、怒りの声が上がった。第3次桂内閣成立の1週間前にあたる12月14日には慶應義塾出身者による社交クラブ、交詢社有志が発起人となり、「閥族打破・憲政擁護」をスローガンとして憲政擁護会が組織された(第一次護憲運動)。
※この「第3次桂内閣の成立と護憲運動」の解説は、「第30回帝国議会」の解説の一部です。
「第3次桂内閣の成立と護憲運動」を含む「第30回帝国議会」の記事については、「第30回帝国議会」の概要を参照ください。
- 第3次桂内閣の成立と護憲運動のページへのリンク